覚せい剤はいらない

elperro2009-08-13


舛添要一厚生労働相は11日、閣議後の記者会見で、昨年、覚せい剤事件で検挙された未成年者は中学生8人を含む255人に上ることを明らかにした。「芸能人逮捕で非常に注目が集まっている。これを機会に(麻薬、覚せい剤の)撲滅キャンペーンを強化し、人間そのものを破壊することを若い人に周知徹底したい」と述べた。
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090812ddm041040041000c.html


ああ、そう。 あら、そう。 ふうん、そう。


覚せい剤やめますか? それとも、人間やめますか?」という定着した標語がある。


覚せい剤にはまると、人間ではなくなるぞ、という脅しである。覚せい剤にはまったら、人間という属性を剥奪すると脅している。これは、誰もが人間の価値を信奉していることを前提にしている。
あるいは、社会的な優遇を取り消すと脅しており、人間と認められるものを優遇する社会システムの権力性に依存している。
どちらにしても、社会や文化が特定の属性に絶対の排他的な価値を設定し権力を付与している。
それを差別という。
「人間やめますか?」は、差別思想に基づいた標語。


人間自認希望者たちは、社会から人間という価値承認を得ることを求めてやまない。
しかし、人間は、社会の判断によって定義され、社会の判断は時代や地域によって変わりゆく。
あいまいな判断基準に基づいたあやふやな定義の人間の価値を、どうやって信じているのでしょう。
ただただ社会の価値設定の言うなりに信じているだけ。そしてその信じることが社会の価値設定を強化する自作自演。


「人間やめますか?」はもちろん、覚せい剤常用者が人間という種ではなくなるとは言っていない。
社会や社会を背後につけた者たちによって、「人間ではあるけれど人間とは認めない」と判断される。
権力に従順でない者を非国民と罵倒することに似ている。その国の国籍を持っていなければ非国民とは呼ばれない。「国民ではあるけれど国民とは認めない」と判断される。


被差別属性を不可視にできるタイプのマイノリティに、カミングアウトをやめろという薦めにも似ている。
「差別構造下の特権階級でいることをやめますか? そんなことすると損するよ」と脅す。そもそも、得することがずるいことだというのに。


覚せい剤がは良いとは言わない。
覚せい剤には、人間自認者に人間自認の幻想性を思い知らせる効果はないでしょう。人間を越えた意識の高みに触れられるというわけではなく、覚せい剤をやっても、人間は人間のまま。傲慢な特権階級の差別主義者は、傲慢な特権階級の差別主義者のまま。覚せい剤を摂取するのは人間をやめるためではない。


人間をやめるのに、覚せい剤はいらない。関係ない。


「人間やめますか? それとも、覚せい剤やめますか?」は、支配的なイデオロギーとして善悪の定義を行う人間中心主義の庇護を受けて善良ぶった好印象を狙っているのが、いやらしい。
半分は覚せい剤で身体を壊すことを心配しているのでしょう。でも半分は、「覚醒剤をやったら、おまえはもう私たちの人間党から除名する」という脅迫。
標語のオリジナル版ではちゃんと、「追放しよう」と補足することで排他主義を打ち出している。少数派の排斥をしたい連中にアピールしていることがいくらかわかりやすく、まだ潔い。


はっきり言えばいいのに。
覚せい剤なんかやったら、よってたかってみんなでいじめるぞ。いじめ、だいすき!」って。

縞模様のパジャマの少年

縞模様のパジャマの少年 (2008) The Boy in the Striped Pyjamas


強制収容所に隣接する家に住む一家。
父は軍人で収容所の看守。
探検物語が好きな5歳の息子に、父は厳格な家庭教師をあてがい、現実を見ろと教育する。
家庭教師の語る現実とは、すべてのユダヤ人は悪で自分たちは正しい、というもの。
でもその前に息子は、収容所から一家に派遣されこき使われるユダヤ人元医師の温和さを知っていた。家の裏地を探検し、鉄条網を発見、その向こう側にいた同い年の子供と友達になる。
どう見ても、残酷な高慢さを持っているのは、父親や、出入りする部下の軍人たちのほう。
ユダヤ人をとても悪とは思えなかった。
やがて、それまで収容所の実態を知らなかった母親も少しずつ事実に気づくようになるけれど…。


ナチ党員=悪、それ以外=善、の単純な図式のタイプの映画。
善と悪のあいだの曖昧な人間性を信奉する、当事者性が大好きなかたがたには、その単純さが不評になると予想する。


でもね、単純な図式に例えるからこそ、寓話として善悪についての考察を掘り下げることができるのだと思うよ。


ナチの蛮行を描いた映画ではたいてい、協調性が悪として描かれる。
国に併わせる。時代に併わせる。周囲に併わせる。友人や恋人や家族に併わせる。それが悪。
「協調性は基本的に悪をもたらすけれど、まあたまには良くも悪くない場合もなくはない」程度のスタンス。


ナチ絡みの映画ではたいてい、ナチに異を唱えなかった一般の国民もホロコーストの首謀者と扱われる。この映画で言うなら特に教師。
日本産の太平洋戦争絡みの映画ではそれ、逆になるよね。
「協調性は善いもの。いつも善いもの。それで被害に遭ったら完璧に被害者」。
一般国民を悪と描いたものをほとんど知らない。
戦争責任を問われるのは、いつも政府や軍部や天皇ばかり。
国民たちがそうでなければ日本は戦争を引き起こせなかったのに。


当事者は善でも悪でもなかった。そういう時代の流れで、協力するしかなかったなんて。
いや、それこそが悪だと、たいていのナチもの映画は示唆する。


歴史好きのかたがたは、例えばなしが苦手だと思う。
細かい時代交渉に基づいたディティールを大切にする。
構造というか、本質というか、イデアというか、事象の核心を見る気がない。
リアリティが大好き。現実が大好き。


でも、リアリティとは、人間たちの思い込みの積み重ねによって成り立ったもの。
セックスがジェンダーである。つまり、構築された性差こそが身体性と認識される。それ以前に、人間として触れる現実、人間が人間を自認することが、文化的社会的に構築されたものにすぎない。
この映画は、父の語る現実と、息子が触れる現実の対比によって、その社会で現実と認識されるものは決して現実ではないことを示唆している。(と、やりすぎの解釈をしてみるw)


ディティールにばかりこだわった映画は、リアリティを高める一方、個別のカテゴリーの枠組を強化する。
その問題の独自性が強調され、他の問題との共通性を見出ださない。寓話として成り立たせようとはしない。当事者性の利権を手放さない。


何故、『刑法175条』を観て良いと思ったかたの多数は、『悪魔のいけにえ』を観ないのか。
何故、『橋のない川』を読んで感激したかたの多数は、『フランケンシュタイン』を読まないのか。
何故、『レント』は、経済的またはセクシュアリティ的な弱者を讃えながら何故、犬の虐殺を肯定するのか。
当事者性の枠組に縛られた現実認識をしている故のこと。
当事者性の枠組に縛られることで現実というものの虚構性を認識をしない故のこと。
現実という、とても範囲の狭い虚構にしか興味を示さない故のこと。


この映画の前に『HACHI 約束の犬』、『ボルト』を、この映画の後に『ボルト』をもう一回観てきた。


犬の映画は、極端。
犬を知っているかたがたが撮ったか、犬を知らないかたがたが撮ったか、よくわかる。


反戦を訴える『トゥルーへの手紙』。その反戦の中身は、アメリカのラブラドールを救うためにイラクを殲滅しろというものだった。イラクに住む犬は完全無視ですか。ひどい。
犬を人間の生活を引き立てるための道具としてしか見ていない『マーリー 世界一おバカな犬が教えてくれたこと』。
そんな、犬をただのモノとして扱う、ろくでもない映画がある。
どちらもアメリカ映画。
動物は人間のために造られたものだというユダヤ教キリスト教的な考えが、人間中心的な態度に通じていると判断するかもしれない。


けれども、実は、犬をモノ扱いする映画が多いのは、日本映画。
犬が全く写らない『いぬのえいが』。
犬が若いヘテロ恋愛の添え物にすぎない『マリリンに逢いたい』。
無料で出回っている『犬の十戒』を盗んで、金儲けに使った『犬と私の10の約束』。
基本的に人間を描こうとし、犬を描こうとしない。犬を見たことがないのでしょう。
ああいう映画は、『縞模様のパジャマの少年』の父親のようだと思う。
フェンスの向こうにいるのは、ナチの現実では人間ではない。そして、当事者性に縛られた人間は人間しか認識しない。自分の人間の「現実」しか認識しない。
その枠の中での細かい善悪しか見ない。
もっと崇高なものがすぐ隣にいるというのに。


『HACHI 約束の犬』と『ボルト』は、どちらも素晴らしかった。
ボールを噛むハチ。ニンジンのおもちゃを噛むボルト。製作者は、犬のそういう姿が感動的な現実だということを知っている。犬を知っている。
フェンスの向こうのユダヤ人少年と友達になれるのは、『いぬのえいが』ではなく、『HACHI 約束の犬』です。



2009/08/17 追記


ROMっている某所で、「ハーヴェイ・ミルク」の再上映しますよって情報提供が連続している。
セクマイものっていったら、シネマヴェーラで『フランケンシュタインの花嫁』、やるんだけどなあ。
監督はオープンリーゲイのジェイムズ・ホエール。フランケンシュタインの怪物の受難には被差別者の痛みが重ねられて描かれている。フランケンシュタインは原作からしてそうだけど。
その情報はそこには出ないだろうし、出したとしても興味を示されないだろうし、タイトルを見ただけで無視するかたも多く、無関係と扱われるんだろうなあ。
露骨にセクマイと言われないと興味を持たない、セクマイマニア、もとい、当事者性信奉。
とりあえず、ただ、呆然と眺める。


アクティビズムの最大の障害のひとつであろう、マジョリティの問題への無関心さ、気づかなさの原因は、マジョリティの当事者性信奉にあると思う。なのに、アクティビズムは当事者性を打ち出しがち。
『モーリス』と『恋のミニスカ ウエポン』と『ブラザーベア』と『テキサス・チェーンソー・ビギニング』は同じ話なんだよ。
そこまでいうのは乱暴すぎるけど、分野が違うけどみんな、内なる思い込みを乗り越えてマイノリティの自分を見つける物語。
でも、『モーリス』を好きなかたはまず、『テキサス・チェーンソー・ビギニング』に興味を示さないだろうなあ。
差別問題Aに興味あるかたが、差別問題Bに興味を示すことは、少ないんだろうなあ。
差別問題Bの考察を、差別問題Aに当て嵌めるなんて、滅多にないことだろうなあ。
(全くないとは言ってないよ)
とりあえず、ただ、呆然と眺める。

ポー川のひかり

ポー川のひかり (2007) Cento Chiodi

イタリアの名門大学の図書室で、たくさんの蔵書が太い釘で床に打ち込まれる事件が発生するの。それを行ったのは、新進気鋭の若い哲学教授。
彼は地位と名声を捨て去って、豊かな緑に溢れるポー川の岸辺に住み着くの。近くの小さな村に住むかたがたは、知性と優しさに溢れた髭もじゃの彼を「キリストさん」と呼び慕うようになるの。
彼は、村のかたがたと接することでいつしか、それまで経験したことのなかった満足を得ていくの。
「何百の本を読むよりも、友人とコーヒーを飲み語らうほうが人生にはよほど重要だ」
書物の知識を詰め込むことに明け暮れてきた彼は、知識ではなく人と人との直の繋がりが重要だと感じるように変わっていったの。


知識を詰め込むことでかえって、すぐ目の前にあって触れることができる単純な真実から遠ざかる。
彼が学問としてどんなこと追求してきたのか、映画の中では「哲学」だとしか触れられないのでよくわからないけど、内容がどうあれその学問的知識は、虚像に過ぎないものと扱われているの。
そんな虚しい虚像に別れを告げて、彼が選択したのは人と人とのつながりに価値を置くこと。人に価値を置く、ヒューマニズム


でも、そこで描かれる人と人とはつながりは、彼らが、その社会の流儀で、村の流儀で、人の流儀で、男は男の流儀で、女は女の流儀で、接しあうことで、成立しているの。その流儀は、構築された人間性の虚構性を問わず、構築された社会性の虚構性を問わないことで成り立っているの。
人は社会的動物であるというの。
その社会とは、構築物に過ぎないの。根本が虚構なの。人は社会的動物。それを言い換えれば、虚構を内面化することで人は人を自認するということなの。
社会的文化的な性を、生物学的な性、自然な性として身体は認識するの。それは種の自認に関しても同じことなの。
人と人とのつながりとは、その虚構の自認を前提としたものなのね。
知識の積み重ねが虚構性から逃れられないのと全く同じように、人と人とのつながりも虚構性から逃れられないの。


この映画の描く、知識と人のつながりとの対立。んんん、対立は言いすぎかもしれないね、対比軸、程度でしょうか。この映画の描く対比は、虚構と虚構の対比なの。本質的なものではないの。
人という種に絶対的な優位性を確信しているために、これらを対比させて扱えるのでしょうね。そしてその絶対的な優位性を確信するヒューニズムは、自己言及的にヒューマニズム自身を強化し続けるの。


有無を言わさず人という種を褒めたたえる人間讃歌。
そうそう、劇中には、人以外の動物が鯰しか出てこないの。その鯰も、釣り針に吊り上げられる物品としてしか描かないの。


映画を観たあとに立ち寄った絵本屋さんで、ハチの絵本を読んだの。
帰ってこない大好きな上野教授を、渋谷駅前で暑い日も凍える日も、ひたすら待ち続けるハチ。
お座りしている姿を見れば、何が真実かを教えてくれるの。犬って、そういうものなの。しかも犬は、犬のいいにおいがするの。


ポー川のひかり』は、虚構の虚しさを離れ真実に目を開くことを薦めるの。
それなら、一言で充分なの。
わん!


こういう映画はいいや。
「人間映画に文句つけるなら、動物映画を観てろ」って感じですね。そうですね。
来週は、犬の『ボルト』と、犬の『HACHI 約束の犬』を観てくる予定です。ポー川を観て、そっちがますます楽しみにりました。
わん!わん!



<おまけ>


セントアンナの奇跡 (2008) Miracle at St. Anna


デレク・ルークが、相手を尊重して接する品行方正で純情な役柄。『きみの帰る場所/アントワン・フィッシャー』、『エイプリルの七面鳥』、『輝く夜明けに向かって』に続いてまたまた実直さを体現。その手の役専門になっちゃったのかな。
まあ、そういうの似合うから見てて気持ちいいの。
チョコレートの巨人さんが超かわいいの。
戦時下の人種差別の描写が良かったけど短いの。
登場するのは男ばかり。それは第二次大戦中の軍隊の話だから当たり前なの。


全体的に主張面はあっさりしているけれど、3時間弱だれるところはなく面白く観れたの。
わん!わん!わん!

動機は知らない

人を殺したくなって殺人を犯したというかたがいた。
誰かは特定しない。
兎を殺し、猫を殺し、犬までも殺して、「それでも飽き足らなくて」、人を殺してみたくなったという。「人を殺して何が悪い?」そんなふうに、殺人が悪いという共有された前提自体を疑ってみたりする。殺人を忌むべきものとする人間社会の規範から自由であるかのように語る。
が、それでいて、人より先に、兎、猫、犬を殺しているのは何故だ。人間社会の規範が設定している、種毎の生命の価値のヒエラルキーに、がんじがらめに縛られているじゃないか。どこが自由だというのか。人間社会下で定義された自分の属性だけを擁護する思考から離れられずにいるじゃないか。
まあ、本当の動機は、知らないけれど。


殺された愛犬の敵討ちとして殺人を犯したというかたがいた。
誰かは特定しない。
愛犬を殺すシステムを担っていた者たちへの復讐だと自供している。しかし、その動機は本当の動機ではないと判断した者が多かった。
愛する者の生命を奪われた恨みから、復讐を志す感情は一般的によく知られているはず。古今東西の物語としてよくある定型。死刑制度賛成論者がその理由として挙げる遺族の心情もそれだろう。
ところが、はじめに殺されたのが犬だとなると、はなからそんな動機は有り得ないと、途端に理解できなくなる人間が多いようだ。
きっと、自分の種のことだけが重要なのだろう。まるで、誰もが人間社会下で定義された自分の属性だけを擁護する思考を持っているに違いないと考えているよう。その前提は、あまりに権力志向を自明視していないか。
まあ、本当の動機は、知らないけれど。


路上で誰彼構わず刃物で切り付けて殺傷を行ったかたがいた。
誰かは特定しない。
事件を起こす直前に、急に仕事を解雇されることになったという。その点から一般には、自らの先行きを不安に思ったことが切っ掛けになったと、つまり格差を保持する社会が原因になって格差底辺にいたそのかたを殺人に駆り立てたのではないかと、推測された。
他の推測としては、そのかたがインターネットのヘビーユーザーだったから、オタクだったから、といったものがあった。理由の推測というより、偏見の強化に事件を利用しているに過ぎないだろう。
格差社会の底辺だったせい、インターネットのヘビーユーザーだったせい、オタクだったせい、どの理由付けにせよ、理由はあくまでもそのかたの社会的な立場をもとに推測されている。
立場を超越した客観的な視点から問題意識を持ったとははじめから判断されていない。
まるで、誰もが人間社会下で定義された自分の属性だけを擁護する思考を持っているに違いないと考えているよう。その前提は、あまりに権力志向を自明視していないか。
まあ、本当の動機は、知らないけれど。


権力への抵抗は、主にその権力に抑圧された者が担っている。
白人の支配へのに異義は、有色人種が。モテ規範への異義は、非モテが。男性優位主義への異義は、男ではないものが。ロシア革命は、労働者が団結して成し遂げた。人権運動は、被差別者の痛みを訴えの中心とする。それぞれに自分の社会的立場での利益を追求する。絶対の客観性を備えた正義のためではない、自分の利益のため。
そして、権力を掌握し他者を抑圧する者の理由もまた、自分の利益のため。
そんな利己的な発想ではなく、絶対の客観性を備えた正義を行えたら、こしたことはないだろうが、そんな正義などそう簡単には見つからない。だから利己主義の競合によって社会を改善しようと考えるのだろう。客観性を放棄して。
けれども、客観性が簡単ではないからといって、何故、そうすぐに諦めるのだろう。
現実的ではない。そうかもしれない。しかし、あらゆる権力への抵抗は、現実的ではないとたしなめられてきたものだろう。権力の問題において、現実的ではないからという理由は理由にはならない。
ただ、否定的な烙印をおされた属性を自分から引き受けることは、その烙印への抵抗となるだろう。当事者を積極的に選択することには権力への異議の意味はある。それはいい。
けれども、当事者として語ることに特に重要な意味を見出だすことはどうなのだろう。
まるで、誰もが人間社会下で定義された自分の属性だけを擁護する思考を持っているに違いないと考えているよう。その前提は、あまりに権力志向を自明視していないか。
まあ、本当の動機は、知らないけれど。


現実と語られるものは、人間の当事者性ばかりを結び付け、人間社会を基準に据えた認識でばかり語られているよう。現実という言葉は、なんて狭い範囲の瑣末な出来事を重大であるかのように印象づけるのだろう。人間の世界を価値づける人間世界によって人間を定義しあい、人間の定義に沿って自己を人間と認識し他者を人間と認識し、人間と認識することの積み重ねによって、人間の世界の存在を自明視し、人間だけを尊重しながら、いつしか人間を自認することに権力性が付与されることで、もっと人間であることが欲望されるようになり、社会的な定義の人間を種の人間として扱い、人間であり続ける人間たち。
人間たちは、何故、人間の世界を生きているのだろう。人間たちは、何故、わざわざ人間を自認しているのだろう。何故、自我を属性に依存させるのだろう。
動機は、知らない。


正当な動機も根拠も理由も必然性も、知らない。

女子男子アラサーアラフォー

中性女子、草食系男子、女子力など、女子/男子という言い方をよく見聞きするようになった。
もともとの女子/男子の「子」は、子ども=若い、を指しているかは知らない。そんなことは関係ない。
現在は、女子/男子という言い方は、ある程度以上若いかただけを指している。おばさん、おじさん、おばあさん、おじいさん。そのあたりの呼び方が似合うとされるかたは、はじめから除外されている。
女子/男子を使うかたは、若いのが好きなんだなあ。その感覚が当たり前なんだなあ。
若いのが好きでもいい。何を好むかは自由。でも、若いのが好きなのが多数の世界でその好みを表明するならエイジズム。ひろく共有されている支配的な価値観の表明は、差別的に作用する。それに、マジョリティの価値感は言わなくてもみんな知っている。言う必要はない。わざわざ表明するな。


それから、アラサー、アラフォーという言葉。
それを肯定的に使っていても、もっと極端なエイジズムに媚びている。「10代、20代がいいのは勿論だけど、30代、40代も捨てたもんじゃないわよ」みたいな。
10代、20代がいいという価値観が支配的であることを揺るがさずに、自分の世代の居場所を確保しようとする感じ。特権階級の既得権益を侵害しませんから、私たちの権利も認めて、といった感じ。


ジェンダーフリーを標榜するかたが言う。「性差別的な男らしさ女らしさを侵害しませんから、そこから外れた者の権利を認めて」
共生という思想が、抑圧的な価値観を持つ者へ訴える。「被抑圧者も共生させて」
「支配したい者が支配する"当然の権利"は侵害しませんから、多様性を認めて」
支配する者の機嫌を取って、うまく立ち回ろうとする。支配する者の権益を損なわないようにすることが上手なやりかただという。けれども支配する者が差別を行うのはそもそもその権益のためではないのか。
「わかってもらおうと思うは乞食の心」という田中美津さんの言葉を思う。その態度の不必要な卑屈さを指しているだけでなく、理解を求めるのは乞食を蔑視する者たちが変えることはない、とも言っているように思う。
わかってくれると僅かでも信じているから、わかってもらおうという行動になる。
そして、支配する者の権益を損なわないように気を使うことは、被差別者の痛みだけを強調し、被抑圧者の安全な居場所を確保させてくれ、という訴えになる。被抑圧者の当事者意識ばかりが強調される。
「こんなに辛く苦しい思いをしても、健気に生きている。この社会でより充実した生を得たい」平等な社会を目指すという建前は崩れ、そこで、自分の利益を目指すという本音が露呈する。そんなふうに自分の利益を追求する考えは、理解を得やすいかもしれない。そもそも、支配する者はそのために抑圧を利用しているのだから。
抑圧されているとひろく認識されている属性の持ち主は、その属性の当事者性によって連帯することが出来る。その連帯によって、ほんの少し居場所を確保できるようになる。その居場所を手放さないように、支配する者を怒らせないように気を使う。
そしてますます、支配する者に目を向けず、被抑圧者の痛みにばかり目を向けるようになる。被抑圧者の痛みを強調することで、自分の属性の利益を追求することが当然だという認識が広まり、それは支配する者の考えの正当化にも利用され、ますます支配する者は耳を貸さなくなっていく。
更にまた、被抑圧者の痛みを強調することで、支配する者の耳の貸さなさに目を向けなくなっていく。それは支配する者の考えを維持するのに都合が良く、支配する者は耳を貸さなくなっていく。
奇妙なスパイラル。


支配は、属性に対する価値設定の捏造をもとに行われる。誰かを傷つけることが間違っている以前に、そこが間違っている。抑圧されるものが存在しなくても、充分に間違っている。
差別とはまず、根拠のない属性の肯定のこと。
社会変革の方法は、集団で示威を行うデモや署名運動、政治的活動、あるいは言論の表明による説得や教育によって、穏やかな解決を目指すことが望ましいとされる。
ただしそれも、それが可能な場合だ。
だから、マイノリティの痛みを訴えるよりもマジョリティの権益の断罪を。


2009/07/31 追記
ああ。ここで止めるのは、落ち着かない。そんなことが結論ではない。
だから、属性に基づいた当事者性の完全な否定を。

情報格差

あなたは悪くない | 性被害についての認識のずれ
通常の性行為と、暴行脅迫をもちいた性行為と、何が違うのかわからないという、男性の声を多く聞く。(残念ながら、法曹界にも多く存在する)

それを聞いたときは、倒れるかと思うくらいの、頭をなぐられたかのような衝撃を受けた。
即座に「まったく違います。殺人です」と答えたが、本当に残念なことに、男性にはなかなかわからないようなのだ。(もちろん、わかってくださる男性、わかろうとしてくださる男性もいらっしゃるが、残念ながら少数のように思われる)
http://manysided.blog85.fc2.com/blog-entry-14.html


一旦、この記事へのコメントを書いていました。けれど、長くなりすぎたので、コメントではなく自分の記事にしました。


> 通常の性行為と、暴行脅迫をもちいた性行為と、何が違うのかわからないという、男性の声を多く聞く。


この「多く」は、「(こんな極端に差別的で暴力的な考えをするかたなんてほんの一握りの例外でなければいけないはず。そのはずなのに)多く」、という意味だと思います。それでも、その多くの声がまさか大多数の男性の声だとは思ってはいませんよね。
でもきっと、その多くの声でさえ、氷山の一角に過ぎないでしょう。


男に同一化した男の大多数にとって、通常の性行為は暴行脅迫の欲望。
もちろん、たいていの場合は非暴力を偽装します。
それでいながら男たちだけの場所ではこんな会話をしているのでしょう。
 「いい女を見ると無理矢理犯したくなるよなあ」
 「そりゃそうですよ。男ですから」
そして男同士で男であることを共有しているのでしょう。
そんな男であることの内実は、女の目にとまる場所では隠し通しているのでしょう。
男の暴力を肯定する男は、男たちの支持を得ています。支持までいかなくても、容認はされています。だから、男の暴力を肯定する意見を表明できるんです。
 「他の男たちはだらしないなあ。俺はちゃんと本当のことを言うぞ。男がレイプくらい出来なきゃダメだ」
 「いやあ、なかなかそんなことは(女の前では)言えないっすよ」
男とはそう構築されているものだということを、知っているのは男たちだけ。
一名の強姦犯の陰には、同じ欲望を抱えながら、社会的制裁が怖かったり面倒だったり機会がなかったりで実行していない多数の未実行犯、普通の男たちがいます。
建前では色々言うでしょうが、そんな自分たちにとっては「当たり前」のことで、衝撃を受けているこの記事の姿に「男の実際を何もわかってないばか」と内心で嘲笑する姿がありありと思い浮かびます。
この記事の訴える驚きも怒りも悲しみも、きっと滑稽に見えるでしょう。
男と、男ではない者のあいだには、情報の差がありすぎます。
男を自認した男たちの男社会の情報は、男と認められる男、男と誤認される男以外から隠されています。

男は狼なのよ 気をつけなさい
年頃になったなら つつしみなさい
羊の顔していても 心の中は
狼が牙をむく そういうものよ
(1976年 ピンクレディー 『S・O・S』 作詞:阿久悠


狼に対して、とてもとても失礼な歌詞です。何よりもその点が気に障りますが、とりあえず置いておいて。
つつしみなさいもどういうことですか。1976年に既に自己責任論ですか。自然災害であるかのように加害者の罪は不問とし、被害者を責める。その点もとても気に障りますが、とりあえず置いておいて。
この歌が言うように、普段優しい表面を取り繕っていても、暴力の欲望を持っているものが男というものなんでしょうね。男ジェンダーとはそういうものなんでしょうね。
そうでもなきゃ、そうそう子作り目的でのセックスを行うわけでもないのに、異性愛において、男の射精中心の性器結合型セックスばかりが蔓延しているはずがないでしょう。

「自然」が何であるのかを決定するのは社会なのであり、さらに男とは何か、女とは何か、社会の安定に寄与すべくセックスはどうあるのが「自然」なのかをも社会が規定し、それを個々人の内に内在化させる。このようにして、個人と個人のプライヴェートな関係であると思われているセックスにも、社会制度や社会の価値観が確乎として介入している、と説く。言い換えるなら、政治的、経済的、市民権的な男に対する女の劣位が、まさに性行為自体の中で確認・強化されているであり、従ってその実態を理解しないままいたずらに性を解放しても、かえって女に対する憎悪の強迫観念や、女の劣位という病を悪化させることにもなる、という主張である。
1989年 (アンドレア・ドウォーキン 『インターコース 性的行為の政治学』 (寺沢みずほ訳) P.335 訳者あとがき)


男が支配する地域で、社会とは、男社会の別名。男社会によって、男の性の欲望は暴力と一体のものとして形造られています。
しかし、男社会の定義する男の実態は男しか知りません。自分たちで社会を隠しておきながら、男たちは女は社会を知らないと嘲笑するのでしょう。
もちろん、性暴力の欲望を実行に移すのは許しがたいことです。実行に移された性暴力には憤るべきだと思います。問題なのは、性犯罪者。
でも、男社会への表向きには性暴力の欲望を容認しながら男女社会という裏向きには性暴力を許せないと言う、二枚舌の男自任男たちのことをを忘れないでいてほしい。性暴力の欲望を許す者がそこらじゅうに大勢いることをわかっていてほしい。


忘れても、わかっていなくても、問題ではありません。何も悪くはありませんが、でも。
男女の性暴力をめぐる言説は、異様だと思います。
性暴力を糾弾する発言のほとんどは、まるで性犯罪者の男の欲望が一部の悪い男の「異常な」欲望だと言っているかのよう。
それを普通の男たちは陰でこっそり嘲笑う。
  「なにいってんの。ばかだね。それ普通の欲望だから」
そうではなくても。
  「悪いのはわかってる。でも仕方ないだろう。それが男なのだから」そんな感じでしょうか。
そして、男の彼らにとって社会で生活していくための最低限の資格が、男であること。
悪いことでも、そうしなければ社会に受け入れられない、食べていく金を稼げない、生活のためにはどうしてもそうしなくてはならない、それくらいに思っているのでしょう。加害者を擁護しなければ、自分が生きていけなくなるのです。被害者など眼中にあるわけがありません。
しかし、その最低限の生活はきっと全然最低限などではなく、最低限の生活に必要な金は女性の平均賃金よりはるかに多いんでしょうけどね。


殺人犯を匿いけしかている者ばかりの中で、それを忘れて、それを知らずに、「殺人犯、許せない」と憤っているのは、なんだか滑稽で悲しいくないですか。
殺人犯の罪を問うとともに、殺人教唆犯の罪も問いたいものです。*1

今の現状は、訴えた被害者の方が、よりいっそうの苦しみを負うようなものだ。
あまりに理不尽だと思う。
(同「あなたは悪くない | 性被害についての認識のずれ」より)


全くもって。


<先まわりの予想で宣言>
このエントリにもし「普通の男はそんな悪くないよ」系の男擁護の言い訳コメントが付いたら、放置して無視、または削除します。そんな認識は、男の実際を知らないかまたは、暴力性が当たり前になりすぎていて、多少表面的な表現が穏やかなら暴力を暴力と認識できないのでしょうと判断しています。また、そこから議論を続けても、普通はこうだ、普通はそうじゃない、の、どう認識しているかの不毛な主観の言い争いにしかならないと予想しますので。


2009/07/31 追記
穏健な説得や教育など功を奏さない。
だから、諦めろ、ではない。
だから、加害者と加害支援者=男を自認する男を徹底して問題化しよう。
つづき:女子男子アラサーアラフォー

*1: ここで言っている「殺人」は比喩ですが、ところで、何故、強姦は殺人よりも罪が軽いのでしょう。被害者に恐怖と苦しみを背負わせて生きさせること。現状、殺人事件に関して被害者遺族に苦痛を与えるいう点を考慮して、罪を重くしろという世論が主流ですよね。生きている者に対する苦痛によって量刑を増すという発想。その線で考えるなら、被害者に死の恐怖を与えた後に更に恐怖を継続させる強姦罪は殺人以上の重罪になりませんかねえ。 / なお、遺族の心情を慮って量刑を考慮するという考えには反対です。遺族がいる者と遺族がいない者の生命の重さに差を付けることになりますので。

ボケとツッコミ

日本の芸能界でのゲイの基本はお笑い担当のオカマ。または豪華絢爛な貴族趣味の大奥様。
ビアンはいない…わけじゃないけれど、ビアンを明かすとメジャーな範囲からは除外されがちです。
そんな、わざとらしいほど過剰な女らしさを身につけたオカマや大奥様のキャンプな感覚は、そもそもの女らしさや男らしさの虚構性を暴き性規範を解体する効果があると、いくらか自由な性の認識を開くという政治的な可能性を見出だす考えかたがあります。


けれども、オカマの男らしさ/女らしさからの逸脱をはみだしものとして嘲笑するだけで済ますなら、そんな効果は得られない。
「ありえねーwww」の一言で、認識上の分類は終了。
大奥様を異世界のものと片付けて理解を放棄するなら、そんな効果は得られない。
「ありえねーwww」の一言で、認識上の分類は終了。
実際の芸能界での扱いはそんなもんでしょう。


ブッチや、身嗜み無頓着ビアンや、はたまたそんな固定的なパターンではない性のオプションの独自の組み合わせや、オプション無視。
そういったかたの可視化ができたとしても、同じ扱いを受けそうです。
かといって、性規範からの逸脱が少ない、一般ヘテロふう男ジェンダーを身につけたゲイやフェミニンなビアンが可視化されても、そこには性規範解体の効果は見られないでしょう。



ところで話はいきなり飛びます。
日本のお笑いについて。


昨今の日本のメジャーな芸能界のお笑い、芸能界の漫才や漫才もどきのトークは、ボケとツッコミのかたちが基本です。
おかしな言動をするボケ役に対して「それは変だ」とクレームを入れるのがツッコミ役。
単独芸人の場合は、挿入される観客の笑い声がツッコミ役を担っています。
ツッコミ役は、ボケの言動に解説を加え、「ここ、笑うところです」と観る側に指示を与えます。
指示者は、「普通の感覚」をもとに笑いのポイントを判断します。


観る側の多くは、いちいち笑うところを指示されることで安心が得られるのでしょう。
笑っていい場面か、笑うよりも先に指示を参照するのです。
指示者がいない場合は、自分の内面にコピーされた「普通の感覚」の指示を仰ぎます。
普通の範囲を逸脱しないことにいつも戦々恐々。
何故か。「普通」であることは責任を免除されるという特権があるのです。その特権にしがみついているのでしょう。
「だってそれが普通でしょ」 「みんなやってるじゃない」


精神的疾患などで判断能力が欠如していると見なされた者は、責任能力がないと扱われます。
「普通」の責任逃れの言い訳は、結局、「これは普通に合わせただけ。自分の判断ではない」ということ。
「普通」は、判断能力が欠如しているのです。
しかし、他の判断能力が欠如した者は、その欠如を理由に劣った者として軽蔑される立場があてがわれますが、「普通」の場合はそれによって不利益を被ることはありません。「普通」であることは、大変に卑怯な選択です。


そんな、空気を読み、郷に入れば郷に従い、協調性を重んじ、長いものには巻かれる思考停止によって責任逃れは、日本の「美徳」です。
ニッポン、バンザイ!*1 *2


自分で考えず権力に解説をしてもらってそれを鵜呑みにする。
思考停止は、日本らしい文化なのでしょう。


でも、「春はあけぼの」…ではじまる短い文のむこうにある叙情に、緻密な解説を加えるのは野暮ってもんですよ。
落語の噺の後に、のこのこ解説者が出てきてオチを解説し、熊さんにツッコミを入れまくったりしたら、おあとがよろしくないですよ。
俳句や短歌などもそうです。
過剰な説明をせず少ない情報の行間を読んで類推させるという、思考を推奨する文化も日本文化なんです。


「空気を読む」という規範は、もともとそういうものだったような気がします。
言外のものを類推する、思考の推奨。
けれども現在の「空気を読む」は、その場で力がある者に従う命令でしかありません。
権力の空気に隷属する、思考停止の推奨。


小咄のボケ役、熊さん。
熊さんのボケは、かわいいと思う、愛らしく感じるポイントなんです。
ボケをかます熊さんをどついて馬鹿にするような、節操を欠いた表現の落語は見たくありません。


ボケとツッコミの笑いは、それをやってしまっているんです。


ツッコミ役につっこまれた時点で、ボケ役はそれ以上そのボケを継続することが出来なくなります。
ツッコミは、常識という規範によって、ボケの暴走を止めるんです。
ボケ役はそこでは、常識の世界の者から見下され嘲笑される立場に留められます。
それは日本の芸能界でのオカマや大奥様の繋ぎ止められた立場でもあります。


しかし、ツッコミによって自由を奪われなければボケはもっと深化させていくことが出来るでしょう。
突き詰めたボケは、ナンセンスの域に踏み込み、もっと突きつめればシュールな世界に達します。
英国的な笑いと言われるものが、このパターンでしょうかね。


ボケとは規範からの逸脱のことです。


ツッコミによって、ボケは常識の世界に隷属させられます。
しかしボケがツッコミを逃れてシュールな世界を構築してしまえば、それは常識の世界と並列になり得るのではないでしょうか。
そのときはじめて、ボケは規範解体の効果を持つことが出来る。
オカマ、大奥様は、性規範解体の可能性を持つ。

さらに、ボケツッコミ笑いを見ていると、むしろ、ツッコミ役がつっこむ根拠としている規範こそ、つっこみどころ満載だったりします。
昨今の日本のメジャーな芸能界のお笑いを例えて言えば、スコットランドの民族衣装を着ている男性を見て「男のくせにスカートはいてるよ。超おかしくね?ハハハ」のようなノリです。
おかしいのはどちらでしょうかね。

どちらが正しいか、どちらがおかしいかなんて問題ではないのでしょう。
嘲笑する対象は決まっていて、おかしさの内容なんてどうでも良くて、とにかく常識の視点から見てバカをやっているものを蔑んで笑う。普通じゃないことを嘲笑う。
ボケの論理破綻を笑うのではなく、規範逸脱を嘲笑うのです。


一方、シュールな世界の者は、常識の世界に見下されたりはしません。
構築された逸脱の平衡世界は、常識の世界の脆弱さを照らし出す力を持ってしまいます。
ツッコミは、ボケにそんな力を与えないため、執拗な嫌がらせによって牽制しているのでしょう。
ツッコミはまるで、DV加害者のようです。
DV加害者は被害者に対して「お前はダメな奴で弱くて俺がいないと何もできないバカだ」と態度や言葉でしつこく叩き込んで、支配被支配関係を固定します。
そんな関係のもとで加害者側は一方的に暴力を振るうだけで、自分は暴力にさらされる危険がない安全圏を確保します。


ボケツッコミお笑いの観客も、常識の世界という安全圏を脅かされることなく笑っているだけです。
そして、そんなメジャーな芸能界のお笑いの在り方は、芸能人ではない一般のかたがたの日常の笑いにも移植されます。
そんな笑いの場に冷ややかでシニカルな態度で接する者は、「ノリが悪い」「空気読んでない」「暗い」「陰気」と、やはり支配的な規範を用いて排除をはじめます。


明るく陽気な印象付けがなされている「お笑い」とは、なんと暗く陰欝なものなのでしょう。


そんな陰険なのは、笑えません。他のコメディを観ます。
例えば英国産のシュールなお笑いとしては、クレイアニメのTVシリーズ『レックス・ザ・ラント』には、とても笑わせていただきました。
シュール系のような規範逸脱を愛おしむ傾向のある作品は英国の独壇場っぽいけれど、それがホラーコメディの分野になると他の地域でもよくあるんですよね。


例えばアメリカ産の、『悪魔のいけにえ2』が好きです。
殺人鬼レザーフェイスたんは、チェーンソーをぶんぶん振り回して人間を切り刻み、人間の顔の皮をはいでコレクション。
今日は自分の顔にどの皮をつけようかなあって、ちょっとお洒落なレザーフェイスたん。
気に入った獲物には、チェーンソーのエンジンを止めておずおずとラブコールするレザーフェイスたん。
頭が弱い、ボケ役で、でも愛すべきキャラ。
レザーフェイスたん、かわいいなあ。


脳みそクレーがお茶目な『バタリアン』、ペニスをぱくぱく食べるのが楽しい『ゾンビ・ストリッパーズ』なども好きです。
ボケツッコミ笑いのような陰険さがなくて、楽しいです。ニコニコ。


2009/08/02 追記
セクシュアル・マイノリティへの偏見と重ねて書いたことで何かズレているかもしれない。書きかたがまずかった。
お笑いに対する要望が、常識の解体までみたいになってしまっている。一般に常識と扱われる範囲だけで止まらず、人間性の解体の解体までを求めてる。


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*1: バンザイについて  日本の侵略戦争の象徴だったからと君が代や日の丸に反対するかた。そんなかたがバンザイという言葉は気にとめていないことに出くわすと何か引っ掛かるものを感じます。バンザイも拒否すればいいのに。そのかたが君が代や日の丸を問題視しているのは、その問題が既に左翼的に広く共有されているからなのではないかと勘ぐってしまいます。日本の規範を批判しながら、その問題意識も結局は別な共有された規範に従っているだけじゃないの? と冷ややかな気持ちになります。

*2: 2009/07/29 追記 gnarlyさん、hituzinosanpoさんより、「バンザイ」の成り立ちについてブクマ上でご指摘。ありがとうございます。 http://www.radical-imagination.net/2004/07/post_17.html 万歳はもともと天皇崇拝を共有する装置として造られたものなのですね。これは知りませんでした。ちゃんと気にかけているかたもいるんですね。 日の丸、君が代、万歳の広められた時期はこうでしょうか。 1870年 日の丸を国旗に採用 1880年 君が代を国歌に採用 1889年 大日本帝国憲法発布/万歳の流行が造られる そうなると。君が代や日の丸は、その後戦争を起こさなければ、戦争には関係なかったかもしれない。万歳のほうが、戦争との結びつきが強いのですかね。なら、万歳こそがより問題でしょう。君が代、日の丸は、国家が行ったもの。万歳は、一般国民が行ったもの。君が代や日の丸を問題視して万歳を気にしないかたは、気づかない場合はともかくとして、そうでなければもしかしたら国民の責任は問わず国家の責任だけを問いたがっているのでしょうか。学校教育の場などで行われた場合への異義が多いですものね。(公的機関に対して意見しているから目立つだけかなあ)個人的なこと「こそが最も」政治的と考えます。戦争責任は、天皇よりも、国や軍部に迎合というよりその生活圏の多数派に迎合した国民にあると考えます。