性犯罪での被害者が事件と関係ない点をも責められるのは何故なのか

<おまけのまえがき いくつかのえいがのはなし>


ナチスの宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスは、大衆を思想誘導するために、効果的に映画というメディアを用いた。
『意志の勝利』や『オリンピア』で、人々が誇りを持って社会にスポーツ競技に参与することで生を謳歌する姿を生き生きと描き出した。

一方、当時のドイツ映画界で、計算し尽くされた映像と展開で、映画の持つ迫力と美しさの可能性を存分に引き出し、当時の観る者を圧倒させる映画を撮っていたフリッツ・ラングナチスは、ラングにもナチスの宣伝映画を撮るよう依頼を出した。当然、ドイツ民族の誇りを称える映画を想定していたのだろう。
当時既にドイツで名声を獲得していたラングの代表作のひとつに大作『ニーベルンゲン』がある。その第二部『クリームヒルトの復讐』では、ドイツ民族精神に忠実に心酔する一族が、圧倒的な武力と卑劣な裏工作を駆使して、少数民族を征服し虐げるのです。主人公である少数民族の娘クリームヒルトは、一族への復讐を誓う。
ドイツ民族精神の信奉者がその信奉に基づいて悪辣な行動を取るこのようなストーリーでは、観客にドイツ民族精神への疑いを抱かせる可能性もあるのではないでしょうか。
同じくラングの『メトロポリス』も同様。純血統の一族が支配階級として君臨し労働者たちから搾取を行う未来社メトロポリスで、一族の愛息フレダーがあるきっかけから自分たちの階級の傲慢さに気付き行動を起こす物語です。
そんなものはナチスの思想からして推薦どころか公開禁止対象でしょう。
しかし、そんな映画を撮ったラングに、ナチスは宣伝映画を撮らせようとした。大衆がナチス党を支持するようにするための映画を撮らせようとした。
映画内の主張や問題提起になど、大衆は気にとめないのでしょう。豪華絢爛な映像美で楽しませてあげれば、大衆はその作者のファンになって支持する。大衆は、気分や空気に流され支持不支持を決める。イメージだけに流されその意味を考えてもみない。自分がなんとなく心地よければそれでいい。何も思考し検証してみることはない。
ゲッペルスは大衆をそう判断し、それに見合った宣伝を行った。そして、圧倒的多数の大衆がナチス党を支持することになったのは、ゲッペルスの読みが当たっていたのでしょう。

時代は下って、1990年代。
アルマゲドン』と『タイタニック』という大ヒット作がありました。
この2本、両方ともを好むかたも多いようです。「迫力あるスペクタクル映像にわくわくどきどきした。効果的な音響と音楽に乗せられて感動した」といったところでしょうか。
この2本、両方ともを嫌うかたも多いようです。「派手で大味な描写だ。展開の詰めが甘い。単純すぎて深みに欠ける。ミーハー趣味だ」といったところでしょうか。
アルマゲドン』では、固定的な性別観に忠実に、男としてそうあるべきとされる行動して自己実現する男主人公が肯定的に描かれました。映画は、固定的な性別観に基づいた行動を称えます。
タイタニック』では、固定的な性別観に逆らい、女としてそうあるべきとされる行動を拒絶して自己実現する主人公が描かれました。映画は、固定的な性別観に反する行動を称えます。
この二本の映画、まるで相反する主張を含んでいるんです。
ところが、同じになってしまう。

そして今年2010年の夏。
レオナルド・ディカプリオの新作『インセプション』が公開され、大ヒットしました。
夢と現実の認識を操作するテクノロジーに絡んだ、虚々実々の駆け引きを描いたSFスリラー。映画内側で幾度も繰り返される「それは幻想か事実か」の問いかけ。
その中で、登場キャラクターたちは自己肯定を求めて行動を起こします。ある女性自認者が恋愛関係における成功に求める、女としての自己肯定。ある男性自認者が企業社会での成功に求める、男としての自己肯定。
恋愛と社会、どちらも根本は虚構です。虚構を共有することで、あたかも実在しているかのように認識され信じられ、押し通されるのです。
映画の中で、前者の虚構性は何度も指摘されます。しかし、後者は一切指摘されずに終わるのです。なんという偏った描き方。ひどい内容。

そんな偏りは、ゲッペルスがバカにしながら誘導して利用した「大衆」は気にしない。内容なんで気にしない。「映像凄かったね。迫力あったね。格好良かったね」 描かれた内容は吟味されず、でも映画が操作した性差イメージは自覚なくそっと植えつけられるのでしょうか。「男は現実的で知的。女は妄想癖のあるバカ」と。

大衆は、内容を論理的な吟味することは一切なく、ただイメージだけに流される。ひたすら、イメージだけが重要。
イメージという言葉は、偏見と言い替えてもいいだろう。


性犯罪での被害者が事件と関係ない点をも責められるのは何故なのか

「性犯罪での被害者が事件と関係ない点をも過剰に責められるのは何故なのか」という問題提起があります。

被害者を責める発言で問題なのは、事件とは無関係である被害者の素行や性質を「事件にあっても仕方がない」と関連づけて責めることです。
性暴力事件では、特に顕著に見られることです。

ただしそれは、被害者が、男性/女性の枠組であれば、女であった場合です。
シスジェンダートランスジェンダーの枠組であれば、トランスジェンダーであった場合です。
日本人/外国人の枠組みであれば、国籍さえ確認せずに偏見に基づいた判定で外国人と見做されたかたであった場合です。
つまり、被害者を責める発言は、その犯罪事件に便乗して、その事件以外の要素によって、マイノリティを差別的に攻撃しているのです。
けれども、そのような差別的な扱いは、被害者ではなく加害者に対しても起こっていることです。
最近では、毒物カレー混入事件での林真須美さんに対してが、顕著だった例として挙げられます。
1990年代のアメリカ合衆国で、女性を蔑視している男たちを、彼らが性差別に貢献してきた憎しみから殺害し、死刑執行されたアイリーン・ウォーノスさんもいます。
マスメディアは彼女の同性愛関係をスキャンダラスに採り上げ、「モンスター」というあだ名をつけて罵りました。

加害者か被害者かということは無関係に、常にマイノリティが責められているのです。

事件に便乗してマイノリティを責める発言を図式化すると以下のようになります。

事件に便乗して事件と関係のないことで被害者を責めることは問題です。
全く同じように、事件に便乗して事件と関係のないことで加害者を責めることも問題であるはずです。
事件と無関係な部分では、加害者も被害者も平等であるはずです。

しかし何故、被害者の例だけが挙げられていたのでしょう。
被害者が責められる場合だけを場合「被害を受けたのに更に二次被害を受けて可哀相」という感情を抱かせるのではないでしょうか。
「性暴力事件が発生すると、必ず被害者を責める発言が出るのはなぜだろう?」という問いは、加害者を責め被害者をいたわりたいと思う善意に訴えるのです。
しかし、それもまた、事件と関係のないことでマイノリティを責める発言のように、事件と無関係なことを関連づけているのではないでしょうか。
事件と無関係な点でも、被害者をかばい、被疑者、容疑者、加害者を責めようとしてはいないでしょうか。

この場合の、事件と問題提起の在り方を図式化すると以下のようになります。

このように、このふたつの抑圧は、まったく同じ構成の図式で表すことができます。
どちらも同じように、支配的な規範を利用することで、同意と共感を得ようとしているのです。
被害者だけに特化した問題提起自体が、被害者(と加害者)が責められるのと構造的に全く同じ問題を抱えているのではないでしょうか。

このように、ジェンダー規範による差別の問題化さえ、本題と無関係の差別意識を利用して印象操作を行ってしまう。
このように、ある差別に反対する意見や人権擁護の視点、それ自体にも差別性が潜んでいることが、他にも多くあるのではないでしょうか。

差別とは…
第一段階:何かカテゴリーをつくりあげ、それに属し、属するものたちが帰属先に価値を無理矢理に捏造して利益を得る。更に、捏造した嘘の価値をほんとうだと信じることで利益を増大させ続ける。
第二段階:そのついでに、自分たちの仲間ではないものを見下し排除することで、比較によってより価値を実感できたり、加虐的な快楽を得たり、仲間意識を高めたりするという、更なる利益を追求できる。
第二段階が一般に差別と呼ばれているもので、それは他者を傷つけるから悪いと言われる。 けれども第一段階ですでに、嘘をついて得をするいんちきなので悪いですね。それに、第一段階を行うような利己的な利益追求をひたすら求めるパーソナリティなら、第二段階を実行できるチャンスがあったらやらないはずがない。 そして、被差別者の当事者性に基づいた差別反対は常にこの第一段階の利益を得ることを求めている。それは人権と呼ばれている。