「俺」とチンピラ言葉

日本語を使う男性自認者に一人称「俺」が定着したのは、1970年代。
人気漫画/アニメ「巨人の星」の主人公星飛雄馬が発端だったらしい。

その頃の「俺」は、知的能力が劣った男性が使う男らしい一人称だった。

頭が良くないけれど、男らしい。

それは、知的能力規範のヒエラルキーにおいて否認され、男尊女卑性規範のヒエラルキーにおいて承認された。
つまり、「俺はバカで頭では劣っているけど男らしいぜ」と、知の規範においてマイナスのレッテルを背負うかわりに、性の規範でのプラスのレッテルを手に入れたのだ。
一人称「俺」を選択することには、プラス面とマイナス面があった。

けれども時が過ぎて、日本が「総中流」と言われる頃には、「普通が偉い」という
規範が幅を効かすようになった。
そして彼ら普通志向の者たちは、「頭のいい先生方はそりゃ頭がいいかもしれねぇけど、俺たち普通の一般市民のこそナマの人生を生きていて現実がわかっていて偉い」などという自己肯定を行い、日常において、知的能力の価値を否定していった。

普通の者、普通に迎合するものを絶対肯定する規範は、自分たち普通を最大の権力を与えるながら、決して普通の者を責任主体とはしない。
あらゆるいじめを定着させ、あらゆる差別意識を強化していった。

日常において知的能力の価値が否定された現在、一人称「俺」の意味は、以前とは違う。
「俺はバカで頭では劣っているけど男らしいぜ」は、「俺はバカで偉くて男らしいぜ」になった。
かつて、マイナス面とプラス面を引き受けることだった「俺」はいまや、二重のプラス面を持つ絶対肯定の言葉となったのだ。

「俺」は、そう使うだけで効果を持つ、絶対的な権力の道具と化した。
その権力性は、1980年代から1990年代にかけて完全に浸透した。
また、それと同時に、「俺ら」(おれら)という「俺たち」よりも更に男同士の男らしさへの忠誠度が高い言い方も定着していった。

「俺」は、そのような絶対的な権力性を持つものでありながら、一般に権力とは認識されていない。
1970年代までの知的能力規範のヒエラルキーにおける劣位のイメージを、知的能力規範の優位劣位は事実上逆転したというのに、以前のまま適用しているためだ。

そして2000年代。
「俺」と同じように、かつてマイナス面とプラス面を持っていたが、マイナス面がプラスに書き換えられ、絶対的権力性を持つことになった一連の言い回しがある。
かつて、チンピラ言葉、ヤンキー言葉と言われ蔑まれた男言葉である。

同じ言葉を使い同じ権威への帰属を示す。
そしてその帰属は権威とは扱わない。
何を権威と呼び、傲慢さのレッテルを張るかについても、権威と呼ばれない権威が指示をする。
そして彼らは、それに同調しない者を徹底排斥する。
「俺ら」

戦後ドイツで、ヒトラーを讃えるために広められた「ハイル!」は禁忌の言葉となった。
戦後日本で、天皇陛下を讃えるために広められた「バンザイ!」は禁忌の言葉とはならなかった。
一般に「差別用語」とされるのはマイノリティを蔑視する言葉ばかり。マジョリティを讃える表現が差別用語と扱われないのだ。
「俺」やチンピラ言葉の定着には、その傾向が深く関与しているのではないか。

そして、絶対的肯定の度合い、権力の責任を負わされないという点、定着した範囲の広さ、問題化されなさにおいて、「俺」やチンピラ言葉ほど、に重大な性差別性を持つ言葉は他にないのではないだろうか。