被害性のみの語りは差別の温存に繋がる

ある会社の話をする。

そこの男性社員たちは威張った態度で乱暴な言葉遣いをし、女性を性的利用度の評価対象として扱わなければ、男性社員たちからとても男らしい陰湿な嫌がらせを受ける。
ちょっと言葉遣いを間違えたら…例えば、「やってらんねえよ」を「やってられないよ」と言ってしまったときは、「アハハ。“られない”だって!俺はオカマかい!」と即時自己ツッコミをしてごまかす。
常に自他への相互監視が行われ、言葉や態度で、その性イデオロギーの信奉を表明することが徹底していなければ、排斥対象となる。
一人称は「俺」でなければならない。対外的に場合によっては「私」を使う者はいるが、社内での会話に間違って使ってはならない。
それほど男ぶっていない男性社員がいたら、大多数の過剰に男ぶった男性社員たちが、口を揃えて「協調性がない。勤務態度が悪い」と評価し、辞職に追い込まれる。
そうして、その会社に勤めている男性社員は、男性優位主義の過剰な男自認者ばかりになっている。

似たようなのを見つけました。
>「おい」「お前」「こいつら」「連中」「奴」「だぞ」「だよな」「しろよ」「メシ」「・・な男で」
>ぞんざいでけんか腰な口調で話せないと、「男同士」の友情は築いてもらえないんです。
http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2009/1108/274436.htm?o=0&p=3
これが、プライベートだけではなく、職場全体に浸透しているのです。

女性社員たちの大部分もそれを当然と思っている。
女自認の女性社員の一部も男言葉を使う。「男は男らしくなきゃキモくね?カマなんて、ぜってーヤだね」
それもまた男性優位主義の過剰な男自認者たちには気に入られる。それは女性ジェンダーからの逸脱ではあるが、それ以上に男性ジェンダー価値の肯定として作用するためだ。

ごくごく一部の女性社員が、男性の優位称える価値観が定着していることに不平を唱えれば、「なに言ってんの。普通だよ?被害者意識持ちすぎ。それ、キメーよ」
そして裏では、男性社員と噂話。「ほんと空気読めねーんだよな。ったく女はこれだから」

その会社で、社員の大型集会があった。集会の受付関係は、女性社員だけがやらされる。
ほとんどの社員たちはそれを当たり前と思っているようだ。当たり前と思わない者がいても、そんなことを表明したら暗黙に嫌がらせを受けるに決まっている。

あるベテラン女性社員が、受付をやらされることになり、陰で愚痴った。「受付なんかペーペーの新入社員にやらせりゃいーじゃん。女だからってこんなことやらされるなんて。これって差別だよねあー嫌だ嫌だ」
しかし、愚痴は陰のその場だけで、表面には出さず文句を言わず笑顔で受付を勤めた。そうすることでまた、その会社に蔓延する性差別を少し強化した。

「行ってきたよー。嫌なのにちゃんとやって。偉いよね、私」
性差別に関して、加害行為を行ってきたのに、全く罪悪感なしで、ほんの少し被害者意識を持つ。

彼女は、過剰に男ぶらない/ぶれない男をいじめる空気があったら、絶対にいじめに加担する。
男性ジェンダー支配に媚びない女をいじめる空気があったら、絶対にいじめに加担する。
ずっとずっとそうしてきたように、これはいじめではない、差別でもない、当然だと言いながら。
一切の罪悪感なしで。

それを責められれば、言い訳をする。
「だって私そんな強くないし」
そんな、弱者保護の規範を利用した言い訳する。
「だってそれが日本では普通だし」
そんな、全体主義の規範を利用した言い訳する。

自分が利用可能なあらゆる規範の権力性を利用し、強い立場を確保しているくせに、やはり言う。
「だって私そんな強くないし」
「だってそれが日本では普通だし」
だから悪くないという。

普通をアピール言い分は、「私は悪くない」の言い換えだ。
普通は守られるべきという規範が共有されていることを前提とし、それを利用している。
計算づくで責任を回避するためのレトリックだ。
犯罪は、責任を回避するための工作をした場合、罪が重くなる。
普通であるなら、余計に悪いだろう。
普通という最大の権力を利用しながら、弱いなどと言う。

ピラミッド型の独裁支配社会での少数から多数への抑圧を思い浮かべているのだろう。確かにその場合は多数の普通は弱者だ。
それをもって多数、普通に弱者というイメージを持ち、それを絶対のものとする。
多数から少数への抑圧の話であるのに、多数を弱者と呼ぶ。
めちゃくちゃだ。

この会社が、日本では普通かどうかわからない。
そもそも、そんなことはどうでもいいのだろう。
自分が考える普通が普通であり、自分のいる環境が普通と扱うものが普通であり、環境を決定する権力を持つ者の普通の定義に常に従順だ。
更に、普通であることは全く悪くない、普通であることは弱者なのだから守られるべき、という前提でそれを選択している。

普通の内容など意味はない。
とにかくその場の権力に従い、従うことで自分もその権力の主体となり、しかし権力の主体としての加害者だという自覚はまったくなく被害者意識だけを持つ。
それを普通と呼ぶのだろう。

確かに彼女は、自らがいくらかの不利益を被る方向へ思考を誘導させられている被害者ではあるが、それ以上に、その場の権威に迎合し、迎合することで権威を強化することを優先している。

たまたま女と扱われる身体だったから、その男女の権威配分格差では、完全な権威の側には立てない。
しかし、もしが男と扱われる身体であった場合、彼女のような環境の権威に迎合が可能なところはすべて迎合するパーソナリティの場合、何の疑いも不満もなく、この環境で過剰な男性性を身につけるだろう。

迎合したらそれは、権威の一部となり権威を強化するという、加害性を持つ。
彼女はそれが性差別だとわかっている。
しかし、被害者意識ばかりで、加害性には全く気付かない。

その心理には、これまでこの社会で差別問題を扱ってきた人権運動の影響があるのではないか。

差別問題の核にあるのはマジョリティへの価値設定である。
根拠のないまたは根拠を捏造した価値設定である。
しかし、人権運動のほとんどは、差別問題を扱うとき、被差別者の保護を前面に出すことが多い。
それは、下手に差別する側を批判して波風を立てて潰されるよりも、差別社会の中でもなんとか受け入れられやすい場所を確保し活動を維持していくためだろう。
あちこちのさまざまな人権活動で、被差別者の保護、権利、痛み、などを強調してきたことで、【差別問題=人権問題】、【人権問題=弱いものに優しく】という図式のイメージが出来上がり、更に、【弱い者ものに優しく】というお題目が規範化されてしまった。

ここでもともと指している「弱い者」とは、不均衡な権力分配が行われた差別的価値観が共有された状況下で、権力を持たない者、つまり、その差別的規範におけるマイノリティのことだ。

しかし、「弱い者」の指す対象は、そういう前提条件を無視して勝手に設定されてしまう。
その場その場の権力への迎合を「弱さ」と呼び、それを守るよう要請する。
権力への迎合し、権力に同意したら、権力の承認を得て権力の一部となり、完全ではないにせよ、権力を行使できるようになる。
それは、その差別的規範におけるマジョリティであって、決して弱者ではない。

逆に、その規範に異を唱える者、異を唱えたことで特権を剥奪されるものが、強いというイメージを付与される。
強さ、弱さ、という言葉のイメージをもって、強者と弱者は、実際の権力配分とは真逆の内容になる。

私は普通=差別する立場だから、悪くない。
人権運動は、そう直接は意図していないだろうけれど、そのようなイメージを定着させてしまったのではないか。
それは、差別をより強固にしてしまったのではないか。

実際に目の前に迫った有形無形の暴力からマイノリティを保護することは必要だろう。
しかし、言論としては、マイノリティの擁護をうたうこと、被害者性の言及に終始するのは、上記のような間接的な問題があるのではないだろうか。
被害者性に言及したなら、それ以上に、加害者性を問うべきだ。