THE WAVE ウェイヴ

THE WAVE ウェイヴ (2008) Die Welle

去年のドイツ映画祭で観た『ウェイブ あるクラスの暴走』。
きのうから通常劇場公開がはじまりまりましたので、また観てきました。
おもしろいよ。

実際に起きた事件を基に、ドイツで映画化された本作。始まりは、ごく普通の高校生たちが軽い気持ちで始めた、ファシズムを模した体験授業だった。クラスのみんなで決めた“独裁者”には“様”をつけて名前を呼ぶなど、ルールはわずかで簡単なものばかり。
自由に生きる現代の若者たちが、誰かの下で支配されるという状況に順応するわけがない。
そんな思い込みは、映画の冒頭部分で簡単に覆される。
最初は授業に戸惑いをみせる生徒たちが、次第に集団の中で自分に与えられた役割に夢中になっていく。そして一致団結した若者たちが初めて得る、集団のパワー、集団の一体感。
そのゲームに夢中になった若者たちは急速に暴走し始め、“THE WAVE ウェイヴ”と名付けられたその集団は、たった5日間で学校全体を呑み込んでいく。その動きは、実験を始めた教師ですら制御できなくなっていった。

1967年米カリフォルニア州パロ・アルトのキャバリー高校で歴史教師のロン・ジョーンズはナチズムの授業中「どうしてドイツの人々はナチスドイツのユダヤ人虐殺を見て見ぬふりができたのか?」という質問に応えて、クラスでファシズム実験を行った。
しかし、1日だけと定めたその実験はまたたくまに学校に広がり、生徒たちはスパイし合い、反対したものは迫害され、実験5日目にロンは強制終了させた。
この実験は、2002年公開の映画「es[エス]」のモデルである1971年米スタンフォード大学での刑務所をシミュレーションした6日間の“権力への服従”実験に先んじて、世界に衝撃を与えた心理実験の報告例であった。
2例とも、実験を始めた管理者までが実験に支配されてしまう異常な結果を残した。
グループにおける個人行動に関する数多くの社会的心理実験と実験結果が報告されているにも関わらず、今日でも“ナチスドイツ”のような権威に対する極端な服従の現象は科学的に完全には解明されていない。

↑パンフレットがら抜粋転記。
一部、文の順番入れ替え、誤字訂正、「独裁」を「ファシズム」に変えてます。
独裁制は、ファシズムの一形態に過ぎないから。
これ、ファシズム独裁制っていう、定着してる誤訳のせいよね。
この映画の中の、授業の中で出てくる台詞でも、ファシズムを「独裁者または集団の支配」と定義してる。

高校の授業での意見を出し合う場面、結果としてファシズムの成り立ちかたが羅列される。
ファシズムの見分けかたリストになっていて、便利。

ファシズムを担う主な態度は、分類すれば3種類に分けられると思った。

  • 仲間意識
  • 協調性
  • ヒトの社会に自分の居場所を求めること

この映画で特に詳しく追われる、自覚なくウェイヴに心酔していくる4名のうち、3名は、3つ目の要素が強い。
ウェイヴ以前は何かしら居場所が制限されていた者たち。
周囲に比べ低学歴だったり、いじめられっこだったり、移民だったり。
そして、そんな自分の当事者性に縛られて世界を見ている。

白いシャツにジーンズがウェイヴのユニフォーム。
ウェイヴに迎合しなかった生徒は、赤いシャツを着ているというだけで、わがままだとなじられ、居場所を奪われ排除され、こっそり涙を流す。

自己保身が最優先なら赤いシャツを着るでしょう。
当事者性に絡めとられていて、自分の痛みが問題の中心だったら、「ウェイヴは、赤いシャツも認めて」と訴えるでしょう。
でも、この問題は、そういう問題じゃないよね。
そのかたは、そんなふうに、その自分の痛み、当事者性には執着しない。
そして、ウェイヴの暴走を食い止めようと動き出す。
状況の危険さを判断できたのは、自分から離れて状況を冷静に見れたから。

泣けば泣くほど俯瞰に行く者と、泣けば泣くほど当事者性にしがみつく者。

後者は、真実は、身体でわかるという、経験してわかるという。

待って。自分の居心地の良さ悪さを頼りにするのは危ない。

そうね。例えば、第二波フェミニズムの「名前のない問題」は、たまたま、その居心地の悪さが、性規範を暴くきっかけにはなった。
でもね。差別する側は、被差別者の存在を居心地悪く感じる。気持ち悪いアカや
近くにはいて欲しくない(いじめたいときはいてもいい)。
そう、身体が語る、経験が語る。
差別する側は、自分の痛み、当事者の痛み、不満をなくそうとして、差別を行う。

権力支配の問題化において、当事者の痛みっていうやつばかり語られるのはきっとそれが、差別主義者の世界観と同じだから。
同じだからわかりやすい。
そんな差別反対は、根本的に差別を承認していないかなあ。
そんな差別反対だから、排除と意識されないまま、マイノリティ内での排除が行われがちなのではないかなあ。

はじめ、自我は、ない。
あったとしても、自我としては認識されない。
自我の記憶領域が、ヒト社会の属性と接続され認証を行い、情報を受け取ることによって、自我が生成される。

同一の認証を行ったものは、同一の情報が設定される。
受信できた情報によって、また受信側の機能によって、その内容は微妙に異なるけれど、その情報はすべて、共有されることで実体があると誤認される規範という虚構に過ぎない。

当事者性とはそういうこと。
社会の、権力=規範=虚構を、自我とすることで、社会の、権力=規範=虚構によって自己承認を行う。

そのとき、自我は、ウェイヴの白いシャツと同じ。皆が同じ。
オプション部分の差異や不良動作によって個体毎の差異は発生するけれど、同じもの。
同じであることによって、その属性に応じた力が与えられる。

自我を属性で規定することによって社会的利益を得る。
それが社会的弱者の属性であっても同じこと。属性の承認自体が、社会規範への自我の接続権という、権威から仲間と認められる役得が与えられていること。

この映画の解説文には、「権威に対する極端な服従の現象は科学的に完全には解明されていない。」と書かれている。

解明?
ヒトは社会的生物である、と言われる。
それはつまり、自我を、社会権力が定めた属性で規定するということ。

自我の記憶領域を社会に預けることが、全体主義的な権威への服従でなくて何なの?
人類自認は、それ自体が、権威に対する服従なのでしょう。
自我の核心が、権威に対する服従で成り立っているのなら、そんな存在たちが集まって作る世界は、ファシズムを逃れることはできない。

自我の保存領域には、無だけを置いておけばいいでしょう。
その無は、仏教の悟りでいうところの無の境地とは違う。
無の境地は、煩悩と比較することで「境地」という正の価値づけが行われている。
虚無でもない。虚無は、やはり煩悩と比較すること、で虚しいとしう負の価値づけが行われている。
どちらでもない、単なる無。

そんな現実的じゃないことを、と思うかもしれない。
マジョリティ当事者はいつも、マイノリティの当事者の言い分を「そんなの現実的じゃない」と片付ける。「どうすればいいの?どうにも出来ないよね。話としてはわかるけど、実際はねえ」と社会権威に媚びる。
属性による自認行為の当事者はいつも、自認を手放すなんてはなから無理と決めつける。「そんなの現実的じゃない」と片付ける。「どうすればいいの?どうにも出来ないよね。話としてはわかるけど、実際はねえ」と社会権威に媚びる。

いつまでそんななんだろう。
属性という虚構にしがみつく、嘘で固めた生物。

無に帰ろうよ。
当事者は当事者性を手放さないから当事者で、当事者である限り無には帰らないの。
ま、今は、レッテルだけ張っとこ。
ファシスト

ザ・ウェーブ

ザ・ウェーブ


20091116 追記

ちょっと前のエントリーと絡めてみる。

同性婚なんて日本では現実的じゃないよねー」と異性愛当事者は語る。

もし、同性婚が認められたとき、同性愛当事者は抑圧する側にまわるでしょう。
「外国人の戸籍取得は、現実的じゃないよねー」なんて、平気で言うことでしょう。

現実と呼ばれているものは、当事者性のパワーバランスによって定義された社会権力だね。