「俺」とチンピラ言葉

日本語を使う男性自認者に一人称「俺」が定着したのは、1970年代。
人気漫画/アニメ「巨人の星」の主人公星飛雄馬が発端だったらしい。

その頃の「俺」は、知的能力が劣った男性が使う男らしい一人称だった。

頭が良くないけれど、男らしい。

それは、知的能力規範のヒエラルキーにおいて否認され、男尊女卑性規範のヒエラルキーにおいて承認された。
つまり、「俺はバカで頭では劣っているけど男らしいぜ」と、知の規範においてマイナスのレッテルを背負うかわりに、性の規範でのプラスのレッテルを手に入れたのだ。
一人称「俺」を選択することには、プラス面とマイナス面があった。

けれども時が過ぎて、日本が「総中流」と言われる頃には、「普通が偉い」という
規範が幅を効かすようになった。
そして彼ら普通志向の者たちは、「頭のいい先生方はそりゃ頭がいいかもしれねぇけど、俺たち普通の一般市民のこそナマの人生を生きていて現実がわかっていて偉い」などという自己肯定を行い、日常において、知的能力の価値を否定していった。

普通の者、普通に迎合するものを絶対肯定する規範は、自分たち普通を最大の権力を与えるながら、決して普通の者を責任主体とはしない。
あらゆるいじめを定着させ、あらゆる差別意識を強化していった。

日常において知的能力の価値が否定された現在、一人称「俺」の意味は、以前とは違う。
「俺はバカで頭では劣っているけど男らしいぜ」は、「俺はバカで偉くて男らしいぜ」になった。
かつて、マイナス面とプラス面を引き受けることだった「俺」はいまや、二重のプラス面を持つ絶対肯定の言葉となったのだ。

「俺」は、そう使うだけで効果を持つ、絶対的な権力の道具と化した。
その権力性は、1980年代から1990年代にかけて完全に浸透した。
また、それと同時に、「俺ら」(おれら)という「俺たち」よりも更に男同士の男らしさへの忠誠度が高い言い方も定着していった。

「俺」は、そのような絶対的な権力性を持つものでありながら、一般に権力とは認識されていない。
1970年代までの知的能力規範のヒエラルキーにおける劣位のイメージを、知的能力規範の優位劣位は事実上逆転したというのに、以前のまま適用しているためだ。

そして2000年代。
「俺」と同じように、かつてマイナス面とプラス面を持っていたが、マイナス面がプラスに書き換えられ、絶対的権力性を持つことになった一連の言い回しがある。
かつて、チンピラ言葉、ヤンキー言葉と言われ蔑まれた男言葉である。

同じ言葉を使い同じ権威への帰属を示す。
そしてその帰属は権威とは扱わない。
何を権威と呼び、傲慢さのレッテルを張るかについても、権威と呼ばれない権威が指示をする。
そして彼らは、それに同調しない者を徹底排斥する。
「俺ら」

戦後ドイツで、ヒトラーを讃えるために広められた「ハイル!」は禁忌の言葉となった。
戦後日本で、天皇陛下を讃えるために広められた「バンザイ!」は禁忌の言葉とはならなかった。
一般に「差別用語」とされるのはマイノリティを蔑視する言葉ばかり。マジョリティを讃える表現が差別用語と扱われないのだ。
「俺」やチンピラ言葉の定着には、その傾向が深く関与しているのではないか。

そして、絶対的肯定の度合い、権力の責任を負わされないという点、定着した範囲の広さ、問題化されなさにおいて、「俺」やチンピラ言葉ほど、に重大な性差別性を持つ言葉は他にないのではないだろうか。

被害性のみの語りは差別の温存に繋がる

ある会社の話をする。

そこの男性社員たちは威張った態度で乱暴な言葉遣いをし、女性を性的利用度の評価対象として扱わなければ、男性社員たちからとても男らしい陰湿な嫌がらせを受ける。
ちょっと言葉遣いを間違えたら…例えば、「やってらんねえよ」を「やってられないよ」と言ってしまったときは、「アハハ。“られない”だって!俺はオカマかい!」と即時自己ツッコミをしてごまかす。
常に自他への相互監視が行われ、言葉や態度で、その性イデオロギーの信奉を表明することが徹底していなければ、排斥対象となる。
一人称は「俺」でなければならない。対外的に場合によっては「私」を使う者はいるが、社内での会話に間違って使ってはならない。
それほど男ぶっていない男性社員がいたら、大多数の過剰に男ぶった男性社員たちが、口を揃えて「協調性がない。勤務態度が悪い」と評価し、辞職に追い込まれる。
そうして、その会社に勤めている男性社員は、男性優位主義の過剰な男自認者ばかりになっている。

似たようなのを見つけました。
>「おい」「お前」「こいつら」「連中」「奴」「だぞ」「だよな」「しろよ」「メシ」「・・な男で」
>ぞんざいでけんか腰な口調で話せないと、「男同士」の友情は築いてもらえないんです。
http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2009/1108/274436.htm?o=0&p=3
これが、プライベートだけではなく、職場全体に浸透しているのです。

女性社員たちの大部分もそれを当然と思っている。
女自認の女性社員の一部も男言葉を使う。「男は男らしくなきゃキモくね?カマなんて、ぜってーヤだね」
それもまた男性優位主義の過剰な男自認者たちには気に入られる。それは女性ジェンダーからの逸脱ではあるが、それ以上に男性ジェンダー価値の肯定として作用するためだ。

ごくごく一部の女性社員が、男性の優位称える価値観が定着していることに不平を唱えれば、「なに言ってんの。普通だよ?被害者意識持ちすぎ。それ、キメーよ」
そして裏では、男性社員と噂話。「ほんと空気読めねーんだよな。ったく女はこれだから」

その会社で、社員の大型集会があった。集会の受付関係は、女性社員だけがやらされる。
ほとんどの社員たちはそれを当たり前と思っているようだ。当たり前と思わない者がいても、そんなことを表明したら暗黙に嫌がらせを受けるに決まっている。

あるベテラン女性社員が、受付をやらされることになり、陰で愚痴った。「受付なんかペーペーの新入社員にやらせりゃいーじゃん。女だからってこんなことやらされるなんて。これって差別だよねあー嫌だ嫌だ」
しかし、愚痴は陰のその場だけで、表面には出さず文句を言わず笑顔で受付を勤めた。そうすることでまた、その会社に蔓延する性差別を少し強化した。

「行ってきたよー。嫌なのにちゃんとやって。偉いよね、私」
性差別に関して、加害行為を行ってきたのに、全く罪悪感なしで、ほんの少し被害者意識を持つ。

彼女は、過剰に男ぶらない/ぶれない男をいじめる空気があったら、絶対にいじめに加担する。
男性ジェンダー支配に媚びない女をいじめる空気があったら、絶対にいじめに加担する。
ずっとずっとそうしてきたように、これはいじめではない、差別でもない、当然だと言いながら。
一切の罪悪感なしで。

それを責められれば、言い訳をする。
「だって私そんな強くないし」
そんな、弱者保護の規範を利用した言い訳する。
「だってそれが日本では普通だし」
そんな、全体主義の規範を利用した言い訳する。

自分が利用可能なあらゆる規範の権力性を利用し、強い立場を確保しているくせに、やはり言う。
「だって私そんな強くないし」
「だってそれが日本では普通だし」
だから悪くないという。

普通をアピール言い分は、「私は悪くない」の言い換えだ。
普通は守られるべきという規範が共有されていることを前提とし、それを利用している。
計算づくで責任を回避するためのレトリックだ。
犯罪は、責任を回避するための工作をした場合、罪が重くなる。
普通であるなら、余計に悪いだろう。
普通という最大の権力を利用しながら、弱いなどと言う。

ピラミッド型の独裁支配社会での少数から多数への抑圧を思い浮かべているのだろう。確かにその場合は多数の普通は弱者だ。
それをもって多数、普通に弱者というイメージを持ち、それを絶対のものとする。
多数から少数への抑圧の話であるのに、多数を弱者と呼ぶ。
めちゃくちゃだ。

この会社が、日本では普通かどうかわからない。
そもそも、そんなことはどうでもいいのだろう。
自分が考える普通が普通であり、自分のいる環境が普通と扱うものが普通であり、環境を決定する権力を持つ者の普通の定義に常に従順だ。
更に、普通であることは全く悪くない、普通であることは弱者なのだから守られるべき、という前提でそれを選択している。

普通の内容など意味はない。
とにかくその場の権力に従い、従うことで自分もその権力の主体となり、しかし権力の主体としての加害者だという自覚はまったくなく被害者意識だけを持つ。
それを普通と呼ぶのだろう。

確かに彼女は、自らがいくらかの不利益を被る方向へ思考を誘導させられている被害者ではあるが、それ以上に、その場の権威に迎合し、迎合することで権威を強化することを優先している。

たまたま女と扱われる身体だったから、その男女の権威配分格差では、完全な権威の側には立てない。
しかし、もしが男と扱われる身体であった場合、彼女のような環境の権威に迎合が可能なところはすべて迎合するパーソナリティの場合、何の疑いも不満もなく、この環境で過剰な男性性を身につけるだろう。

迎合したらそれは、権威の一部となり権威を強化するという、加害性を持つ。
彼女はそれが性差別だとわかっている。
しかし、被害者意識ばかりで、加害性には全く気付かない。

その心理には、これまでこの社会で差別問題を扱ってきた人権運動の影響があるのではないか。

差別問題の核にあるのはマジョリティへの価値設定である。
根拠のないまたは根拠を捏造した価値設定である。
しかし、人権運動のほとんどは、差別問題を扱うとき、被差別者の保護を前面に出すことが多い。
それは、下手に差別する側を批判して波風を立てて潰されるよりも、差別社会の中でもなんとか受け入れられやすい場所を確保し活動を維持していくためだろう。
あちこちのさまざまな人権活動で、被差別者の保護、権利、痛み、などを強調してきたことで、【差別問題=人権問題】、【人権問題=弱いものに優しく】という図式のイメージが出来上がり、更に、【弱い者ものに優しく】というお題目が規範化されてしまった。

ここでもともと指している「弱い者」とは、不均衡な権力分配が行われた差別的価値観が共有された状況下で、権力を持たない者、つまり、その差別的規範におけるマイノリティのことだ。

しかし、「弱い者」の指す対象は、そういう前提条件を無視して勝手に設定されてしまう。
その場その場の権力への迎合を「弱さ」と呼び、それを守るよう要請する。
権力への迎合し、権力に同意したら、権力の承認を得て権力の一部となり、完全ではないにせよ、権力を行使できるようになる。
それは、その差別的規範におけるマジョリティであって、決して弱者ではない。

逆に、その規範に異を唱える者、異を唱えたことで特権を剥奪されるものが、強いというイメージを付与される。
強さ、弱さ、という言葉のイメージをもって、強者と弱者は、実際の権力配分とは真逆の内容になる。

私は普通=差別する立場だから、悪くない。
人権運動は、そう直接は意図していないだろうけれど、そのようなイメージを定着させてしまったのではないか。
それは、差別をより強固にしてしまったのではないか。

実際に目の前に迫った有形無形の暴力からマイノリティを保護することは必要だろう。
しかし、言論としては、マイノリティの擁護をうたうこと、被害者性の言及に終始するのは、上記のような間接的な問題があるのではないだろうか。
被害者性に言及したなら、それ以上に、加害者性を問うべきだ。

性犯罪での被害者が事件と関係ない点をも責められるのは何故なのか

<おまけのまえがき いくつかのえいがのはなし>


ナチスの宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスは、大衆を思想誘導するために、効果的に映画というメディアを用いた。
『意志の勝利』や『オリンピア』で、人々が誇りを持って社会にスポーツ競技に参与することで生を謳歌する姿を生き生きと描き出した。

一方、当時のドイツ映画界で、計算し尽くされた映像と展開で、映画の持つ迫力と美しさの可能性を存分に引き出し、当時の観る者を圧倒させる映画を撮っていたフリッツ・ラングナチスは、ラングにもナチスの宣伝映画を撮るよう依頼を出した。当然、ドイツ民族の誇りを称える映画を想定していたのだろう。
当時既にドイツで名声を獲得していたラングの代表作のひとつに大作『ニーベルンゲン』がある。その第二部『クリームヒルトの復讐』では、ドイツ民族精神に忠実に心酔する一族が、圧倒的な武力と卑劣な裏工作を駆使して、少数民族を征服し虐げるのです。主人公である少数民族の娘クリームヒルトは、一族への復讐を誓う。
ドイツ民族精神の信奉者がその信奉に基づいて悪辣な行動を取るこのようなストーリーでは、観客にドイツ民族精神への疑いを抱かせる可能性もあるのではないでしょうか。
同じくラングの『メトロポリス』も同様。純血統の一族が支配階級として君臨し労働者たちから搾取を行う未来社メトロポリスで、一族の愛息フレダーがあるきっかけから自分たちの階級の傲慢さに気付き行動を起こす物語です。
そんなものはナチスの思想からして推薦どころか公開禁止対象でしょう。
しかし、そんな映画を撮ったラングに、ナチスは宣伝映画を撮らせようとした。大衆がナチス党を支持するようにするための映画を撮らせようとした。
映画内の主張や問題提起になど、大衆は気にとめないのでしょう。豪華絢爛な映像美で楽しませてあげれば、大衆はその作者のファンになって支持する。大衆は、気分や空気に流され支持不支持を決める。イメージだけに流されその意味を考えてもみない。自分がなんとなく心地よければそれでいい。何も思考し検証してみることはない。
ゲッペルスは大衆をそう判断し、それに見合った宣伝を行った。そして、圧倒的多数の大衆がナチス党を支持することになったのは、ゲッペルスの読みが当たっていたのでしょう。

時代は下って、1990年代。
アルマゲドン』と『タイタニック』という大ヒット作がありました。
この2本、両方ともを好むかたも多いようです。「迫力あるスペクタクル映像にわくわくどきどきした。効果的な音響と音楽に乗せられて感動した」といったところでしょうか。
この2本、両方ともを嫌うかたも多いようです。「派手で大味な描写だ。展開の詰めが甘い。単純すぎて深みに欠ける。ミーハー趣味だ」といったところでしょうか。
アルマゲドン』では、固定的な性別観に忠実に、男としてそうあるべきとされる行動して自己実現する男主人公が肯定的に描かれました。映画は、固定的な性別観に基づいた行動を称えます。
タイタニック』では、固定的な性別観に逆らい、女としてそうあるべきとされる行動を拒絶して自己実現する主人公が描かれました。映画は、固定的な性別観に反する行動を称えます。
この二本の映画、まるで相反する主張を含んでいるんです。
ところが、同じになってしまう。

そして今年2010年の夏。
レオナルド・ディカプリオの新作『インセプション』が公開され、大ヒットしました。
夢と現実の認識を操作するテクノロジーに絡んだ、虚々実々の駆け引きを描いたSFスリラー。映画内側で幾度も繰り返される「それは幻想か事実か」の問いかけ。
その中で、登場キャラクターたちは自己肯定を求めて行動を起こします。ある女性自認者が恋愛関係における成功に求める、女としての自己肯定。ある男性自認者が企業社会での成功に求める、男としての自己肯定。
恋愛と社会、どちらも根本は虚構です。虚構を共有することで、あたかも実在しているかのように認識され信じられ、押し通されるのです。
映画の中で、前者の虚構性は何度も指摘されます。しかし、後者は一切指摘されずに終わるのです。なんという偏った描き方。ひどい内容。

そんな偏りは、ゲッペルスがバカにしながら誘導して利用した「大衆」は気にしない。内容なんで気にしない。「映像凄かったね。迫力あったね。格好良かったね」 描かれた内容は吟味されず、でも映画が操作した性差イメージは自覚なくそっと植えつけられるのでしょうか。「男は現実的で知的。女は妄想癖のあるバカ」と。

大衆は、内容を論理的な吟味することは一切なく、ただイメージだけに流される。ひたすら、イメージだけが重要。
イメージという言葉は、偏見と言い替えてもいいだろう。


性犯罪での被害者が事件と関係ない点をも責められるのは何故なのか

「性犯罪での被害者が事件と関係ない点をも過剰に責められるのは何故なのか」という問題提起があります。

被害者を責める発言で問題なのは、事件とは無関係である被害者の素行や性質を「事件にあっても仕方がない」と関連づけて責めることです。
性暴力事件では、特に顕著に見られることです。

ただしそれは、被害者が、男性/女性の枠組であれば、女であった場合です。
シスジェンダートランスジェンダーの枠組であれば、トランスジェンダーであった場合です。
日本人/外国人の枠組みであれば、国籍さえ確認せずに偏見に基づいた判定で外国人と見做されたかたであった場合です。
つまり、被害者を責める発言は、その犯罪事件に便乗して、その事件以外の要素によって、マイノリティを差別的に攻撃しているのです。
けれども、そのような差別的な扱いは、被害者ではなく加害者に対しても起こっていることです。
最近では、毒物カレー混入事件での林真須美さんに対してが、顕著だった例として挙げられます。
1990年代のアメリカ合衆国で、女性を蔑視している男たちを、彼らが性差別に貢献してきた憎しみから殺害し、死刑執行されたアイリーン・ウォーノスさんもいます。
マスメディアは彼女の同性愛関係をスキャンダラスに採り上げ、「モンスター」というあだ名をつけて罵りました。

加害者か被害者かということは無関係に、常にマイノリティが責められているのです。

事件に便乗してマイノリティを責める発言を図式化すると以下のようになります。

事件に便乗して事件と関係のないことで被害者を責めることは問題です。
全く同じように、事件に便乗して事件と関係のないことで加害者を責めることも問題であるはずです。
事件と無関係な部分では、加害者も被害者も平等であるはずです。

しかし何故、被害者の例だけが挙げられていたのでしょう。
被害者が責められる場合だけを場合「被害を受けたのに更に二次被害を受けて可哀相」という感情を抱かせるのではないでしょうか。
「性暴力事件が発生すると、必ず被害者を責める発言が出るのはなぜだろう?」という問いは、加害者を責め被害者をいたわりたいと思う善意に訴えるのです。
しかし、それもまた、事件と関係のないことでマイノリティを責める発言のように、事件と無関係なことを関連づけているのではないでしょうか。
事件と無関係な点でも、被害者をかばい、被疑者、容疑者、加害者を責めようとしてはいないでしょうか。

この場合の、事件と問題提起の在り方を図式化すると以下のようになります。

このように、このふたつの抑圧は、まったく同じ構成の図式で表すことができます。
どちらも同じように、支配的な規範を利用することで、同意と共感を得ようとしているのです。
被害者だけに特化した問題提起自体が、被害者(と加害者)が責められるのと構造的に全く同じ問題を抱えているのではないでしょうか。

このように、ジェンダー規範による差別の問題化さえ、本題と無関係の差別意識を利用して印象操作を行ってしまう。
このように、ある差別に反対する意見や人権擁護の視点、それ自体にも差別性が潜んでいることが、他にも多くあるのではないでしょうか。

差別とは…
第一段階:何かカテゴリーをつくりあげ、それに属し、属するものたちが帰属先に価値を無理矢理に捏造して利益を得る。更に、捏造した嘘の価値をほんとうだと信じることで利益を増大させ続ける。
第二段階:そのついでに、自分たちの仲間ではないものを見下し排除することで、比較によってより価値を実感できたり、加虐的な快楽を得たり、仲間意識を高めたりするという、更なる利益を追求できる。
第二段階が一般に差別と呼ばれているもので、それは他者を傷つけるから悪いと言われる。 けれども第一段階ですでに、嘘をついて得をするいんちきなので悪いですね。それに、第一段階を行うような利己的な利益追求をひたすら求めるパーソナリティなら、第二段階を実行できるチャンスがあったらやらないはずがない。 そして、被差別者の当事者性に基づいた差別反対は常にこの第一段階の利益を得ることを求めている。それは人権と呼ばれている。

THE WAVE ウェイヴ

THE WAVE ウェイヴ (2008) Die Welle

去年のドイツ映画祭で観た『ウェイブ あるクラスの暴走』。
きのうから通常劇場公開がはじまりまりましたので、また観てきました。
おもしろいよ。

実際に起きた事件を基に、ドイツで映画化された本作。始まりは、ごく普通の高校生たちが軽い気持ちで始めた、ファシズムを模した体験授業だった。クラスのみんなで決めた“独裁者”には“様”をつけて名前を呼ぶなど、ルールはわずかで簡単なものばかり。
自由に生きる現代の若者たちが、誰かの下で支配されるという状況に順応するわけがない。
そんな思い込みは、映画の冒頭部分で簡単に覆される。
最初は授業に戸惑いをみせる生徒たちが、次第に集団の中で自分に与えられた役割に夢中になっていく。そして一致団結した若者たちが初めて得る、集団のパワー、集団の一体感。
そのゲームに夢中になった若者たちは急速に暴走し始め、“THE WAVE ウェイヴ”と名付けられたその集団は、たった5日間で学校全体を呑み込んでいく。その動きは、実験を始めた教師ですら制御できなくなっていった。

1967年米カリフォルニア州パロ・アルトのキャバリー高校で歴史教師のロン・ジョーンズはナチズムの授業中「どうしてドイツの人々はナチスドイツのユダヤ人虐殺を見て見ぬふりができたのか?」という質問に応えて、クラスでファシズム実験を行った。
しかし、1日だけと定めたその実験はまたたくまに学校に広がり、生徒たちはスパイし合い、反対したものは迫害され、実験5日目にロンは強制終了させた。
この実験は、2002年公開の映画「es[エス]」のモデルである1971年米スタンフォード大学での刑務所をシミュレーションした6日間の“権力への服従”実験に先んじて、世界に衝撃を与えた心理実験の報告例であった。
2例とも、実験を始めた管理者までが実験に支配されてしまう異常な結果を残した。
グループにおける個人行動に関する数多くの社会的心理実験と実験結果が報告されているにも関わらず、今日でも“ナチスドイツ”のような権威に対する極端な服従の現象は科学的に完全には解明されていない。

↑パンフレットがら抜粋転記。
一部、文の順番入れ替え、誤字訂正、「独裁」を「ファシズム」に変えてます。
独裁制は、ファシズムの一形態に過ぎないから。
これ、ファシズム独裁制っていう、定着してる誤訳のせいよね。
この映画の中の、授業の中で出てくる台詞でも、ファシズムを「独裁者または集団の支配」と定義してる。

高校の授業での意見を出し合う場面、結果としてファシズムの成り立ちかたが羅列される。
ファシズムの見分けかたリストになっていて、便利。

ファシズムを担う主な態度は、分類すれば3種類に分けられると思った。

  • 仲間意識
  • 協調性
  • ヒトの社会に自分の居場所を求めること

この映画で特に詳しく追われる、自覚なくウェイヴに心酔していくる4名のうち、3名は、3つ目の要素が強い。
ウェイヴ以前は何かしら居場所が制限されていた者たち。
周囲に比べ低学歴だったり、いじめられっこだったり、移民だったり。
そして、そんな自分の当事者性に縛られて世界を見ている。

白いシャツにジーンズがウェイヴのユニフォーム。
ウェイヴに迎合しなかった生徒は、赤いシャツを着ているというだけで、わがままだとなじられ、居場所を奪われ排除され、こっそり涙を流す。

自己保身が最優先なら赤いシャツを着るでしょう。
当事者性に絡めとられていて、自分の痛みが問題の中心だったら、「ウェイヴは、赤いシャツも認めて」と訴えるでしょう。
でも、この問題は、そういう問題じゃないよね。
そのかたは、そんなふうに、その自分の痛み、当事者性には執着しない。
そして、ウェイヴの暴走を食い止めようと動き出す。
状況の危険さを判断できたのは、自分から離れて状況を冷静に見れたから。

泣けば泣くほど俯瞰に行く者と、泣けば泣くほど当事者性にしがみつく者。

後者は、真実は、身体でわかるという、経験してわかるという。

待って。自分の居心地の良さ悪さを頼りにするのは危ない。

そうね。例えば、第二波フェミニズムの「名前のない問題」は、たまたま、その居心地の悪さが、性規範を暴くきっかけにはなった。
でもね。差別する側は、被差別者の存在を居心地悪く感じる。気持ち悪いアカや
近くにはいて欲しくない(いじめたいときはいてもいい)。
そう、身体が語る、経験が語る。
差別する側は、自分の痛み、当事者の痛み、不満をなくそうとして、差別を行う。

権力支配の問題化において、当事者の痛みっていうやつばかり語られるのはきっとそれが、差別主義者の世界観と同じだから。
同じだからわかりやすい。
そんな差別反対は、根本的に差別を承認していないかなあ。
そんな差別反対だから、排除と意識されないまま、マイノリティ内での排除が行われがちなのではないかなあ。

はじめ、自我は、ない。
あったとしても、自我としては認識されない。
自我の記憶領域が、ヒト社会の属性と接続され認証を行い、情報を受け取ることによって、自我が生成される。

同一の認証を行ったものは、同一の情報が設定される。
受信できた情報によって、また受信側の機能によって、その内容は微妙に異なるけれど、その情報はすべて、共有されることで実体があると誤認される規範という虚構に過ぎない。

当事者性とはそういうこと。
社会の、権力=規範=虚構を、自我とすることで、社会の、権力=規範=虚構によって自己承認を行う。

そのとき、自我は、ウェイヴの白いシャツと同じ。皆が同じ。
オプション部分の差異や不良動作によって個体毎の差異は発生するけれど、同じもの。
同じであることによって、その属性に応じた力が与えられる。

自我を属性で規定することによって社会的利益を得る。
それが社会的弱者の属性であっても同じこと。属性の承認自体が、社会規範への自我の接続権という、権威から仲間と認められる役得が与えられていること。

この映画の解説文には、「権威に対する極端な服従の現象は科学的に完全には解明されていない。」と書かれている。

解明?
ヒトは社会的生物である、と言われる。
それはつまり、自我を、社会権力が定めた属性で規定するということ。

自我の記憶領域を社会に預けることが、全体主義的な権威への服従でなくて何なの?
人類自認は、それ自体が、権威に対する服従なのでしょう。
自我の核心が、権威に対する服従で成り立っているのなら、そんな存在たちが集まって作る世界は、ファシズムを逃れることはできない。

自我の保存領域には、無だけを置いておけばいいでしょう。
その無は、仏教の悟りでいうところの無の境地とは違う。
無の境地は、煩悩と比較することで「境地」という正の価値づけが行われている。
虚無でもない。虚無は、やはり煩悩と比較すること、で虚しいとしう負の価値づけが行われている。
どちらでもない、単なる無。

そんな現実的じゃないことを、と思うかもしれない。
マジョリティ当事者はいつも、マイノリティの当事者の言い分を「そんなの現実的じゃない」と片付ける。「どうすればいいの?どうにも出来ないよね。話としてはわかるけど、実際はねえ」と社会権威に媚びる。
属性による自認行為の当事者はいつも、自認を手放すなんてはなから無理と決めつける。「そんなの現実的じゃない」と片付ける。「どうすればいいの?どうにも出来ないよね。話としてはわかるけど、実際はねえ」と社会権威に媚びる。

いつまでそんななんだろう。
属性という虚構にしがみつく、嘘で固めた生物。

無に帰ろうよ。
当事者は当事者性を手放さないから当事者で、当事者である限り無には帰らないの。
ま、今は、レッテルだけ張っとこ。
ファシスト

ザ・ウェーブ

ザ・ウェーブ


20091116 追記

ちょっと前のエントリーと絡めてみる。

同性婚なんて日本では現実的じゃないよねー」と異性愛当事者は語る。

もし、同性婚が認められたとき、同性愛当事者は抑圧する側にまわるでしょう。
「外国人の戸籍取得は、現実的じゃないよねー」なんて、平気で言うことでしょう。

現実と呼ばれているものは、当事者性のパワーバランスによって定義された社会権力だね。

二度書き

はじめに書いた日記を、ちょっと違う書き方してみた。
特に新規に追加した部分はありませんw



差別問題を緩和しようとする取り組みは、ある被差別者が差別されない社会を欲してるのだと思う。
でもそれは、実際問題として、望ましいことなのか、疑問。


純化してみる。


100名のかたがいて。
60名が、差別する側。
20名が、Aだから差別されている。
10名が、Bだから差別されている。
8名が、Cだから差別されている。
2名が、Dだから差別されいてる。


A差別が解消されて。
B差別が解消されて。
C差別が解消されて。
そのとき、残ったDの2名は、以前よりもっと苛酷な立場に立たされてしまうんじゃないかなあ。
ある差別が緩和されることで、もっと少数のかたへの差別は、より酷くならないかなあ。


100名中、ABCD合わせて40名の被差別者がいる社会で、差別されるのと。
100名中、D名しか被差別者がいない社会で、差別されるのと。
どっちが辛いですか?


同性婚がすごい嫌。
そもそも婚姻制度って既婚者を特別扱いして優遇するための特権制度でしょう?
そこから外されてた同性愛者にも、その特権を与えるというのが同性婚だよね。


旧来の婚姻制度で。
結婚指向の異性愛者が60名。
そこから漏れるのは40名、そのうち同性愛者30名。


そこから、30名が当事者として活動して、同性婚を法制化できたとする。


同性婚も付いた婚姻制度で。
結婚指向の異性愛者+同性愛者が90名。
そこから漏れるのは10名。
同性婚のときは、30名が活動したから不平等を撤廃できた。


でもその次、残りの10名では少なすぎて不平等に抗えないかもしれない。
そこで30名の同性愛者が当事者性にがんじがらめだったら、10名の少数派のことなんて見えず協力しないでしょう。


なので、同性婚が認められると、婚姻制度から漏れる10名への差別は、よりひどくなってしまう。
そんなのは嫌です。


そして、今の主流の被差別当事者性に基づいた差別緩和活動には、そういう危険がある。


10名を追い詰めないためには、当事者性を手放すか、まとめてすべてを解決するかしかないんじゃないかなあ。


だから、問題化すべきなのは、細かい差別カテゴリーはすっとばして、人類の最大の特権である人類優位主義と、最大の当事者性である人類自認だけだと思っている。

精神の声

精神の声 (1995) Духовные голоса


ソクーロフさんの、ロシア軍駐屯地レポート。5部構成、5時間28分の長尺。
はじめの公開から10年以上経って、今日やっと観ました。


第一部は、淋しい小さな林の雪景色。薄闇の雲間を縫って鶴たちが飛び交う38分。
美しさのきわみの第一部が終わると、第二部はすぐに軍隊へ。


男たちを描くとき、ソクーロフさんは、ホモソーシャルを排除しエロティシズム(長いので以下、エロと表記)に差し替えてしまうのがお得意です。
『日陽はしづかに発酵し』、『ストーン クリミアの亡霊』、『ファザー、サン』、『牡牛座 レーニンの肖像』と、毎度おなじみのホモエロ。
でも、他の作品では、男の肌の周囲に漂う空気がエロを醸し出しています。


『精神の声』も、エロ全開でした。
ただし、この映画のエロは、他のソクーロフさんの映画に比べて、あまりに直截的でびっくり。
第二部、第三部は、穏やかに緩やかに時間が過ぎていく、待機中の駐屯地の模様。
そこで写されるのはひたすら男の下半身。
ブリーフ一枚のお尻を、寄りの画で何分も延々と写したりするの。
被写体の肉体への執拗ないやらしい視線。これ盗撮AVか何かですかw


ところが、第四部、雲行きは急速に怪しくなり、殺伐とした戦闘が写し出される。


そして、戦闘を経た後の第五部。
第三部まで執拗に追っていた、男の下半身のアップは、全く出てこなくなる。
引きの画でも下半身は滅多に写らず、上半身ばかり。
下半身どころか、上半身のアップさえ、最後の最後、兵役を終えて眠りにつく兵士の姿までは、一切出てこない。
しかも、ひとつの被写体に留まる時間が短くなる。"肉体への執拗ないやらしい視線"は全くなくなる。
下半身ではなく上半身が、男たちの顔が写るようになるのにかえって、映画は彼らを突き放します。


ソクーロフさんの映画は、境目がはっきりしない揺れる映像で観客を抱き込んでくれるのが特徴。だから観ていて眠くなると言われるんでしょう。退屈で眠いのではなく、気持ち良くて眠い。
ところが『精神の声』は、はじめはそんな柔らかさを持っていた映像が、いつのまにか、ざらついた心地悪さに差しかわってしまう。
ざらつきを感じはじめると、第一、二部で苦笑いして観ていたいやらしい視線さえ、暖かなものだったのだと思い出されるようになる。
男たちの絆は、冷徹な軍人の関係に変わってしまっている。
肩に腕をまわし抱き合う姿が写されながら、そこからは、暖かさが排除されている。
ホモエロは、戦闘を経て、ホモソーシャルへ変容してしまっている。


引きの画ばかりで人々を突き放し気味に描く第五部にも、寄りの画で長く撮られている部分がある。
それは、軍人たちを気にとめていない鳥の姿と、軍人たちの姿をじっと見つめている犬のまなざしでした。


観終わって映画全体を振り返ると、平時のエロの描写との対比によって、戦闘の恐ろしい影響を感覚に訴える、たいへん作為的な構成だなと思う。
まあ、作為がとても上手くいっているから、不満があるわけではない。


それでも、なんだか中途半端だと感じた。物足りないと感じた。
その物足りなさはきっと、これより先に、2007年のソクーロフさんの映画で、お婆さんと彼女が戦地の村で出会う女たちが、男たちの平和なエロさえも、したたかにしなやかに突き放すさまを見ていたせい。


『精神の声』は、その2007年の『チェチェンへ アレクサンドラの旅』へ続き、そこでソクーロフさんは自ら、自分の仕掛けた作為を越えていきます。


ええと。『精神の声』の物足りなさ以上に、この文をここで終わらせるのはもっと物足りない。最後にいちばん大事なことを書いておこうっと。
いぬかわいい。わんわん。

t

TGまたはTSのかた、FtMとかMtFとかFtXとかMtXとかいう表記、嫌じゃないのかな。
なんでtの前にFとかMとかつけるのかな。
Mなのに、Ftなんてくっつけられたら迷惑じゃないかな。
Fなのに、Mtなんてくっつけられたら迷惑じゃないかな。


そもそも、ただのFって、XtFのことだし。
そもそも、ただのMって、XtMのことだし。
なお、ここでいうFtMMtF性別適合手術のことを指しているのではなく、あくまで性自認の話なので、身体の性は無関係。


たとえば、FtMのかた。
それまでFと自認していた時期が全くなければ、単に、XtM。全然FtMではない。
Mを自認する前に、Fと自認していた時期があれば、XtFtM。最新の経歴だけを抜き出せば、FtM
でもそのF自認時期って、おバカな勘違いをしていた恥ずかしい黒歴史だよね。自分をわかっていなかったんだよね。そんな間違ってた頃のことは隠したいよね。わざわざおおっぴらに過去の恥部を暴くこともないよ。隠そうよ。省略しようよ。そこを隠せばXtM。


で、FtMとかMtFとかって言い方は何なの?
恥ずかしい過去を思い出させて喜ぶ嫌がらせなの?
いいえ。支配的なFやMの性規範を揺るがさないために、tの前はXではなく、FやMなんでしょうね。


スタンダードな属性と設定されている在り方を、tの前に持ってくる。
それって。
異性愛中心社会で、同性愛者を、異性愛t同性愛、と呼ぶようなもの?
キリスト教社会で、仏教徒を、キリスト教t仏教、って呼ぶようなもの?
資本主義社会で、共産主義者を、資本主義t共産主義、って呼ぶようなもの?
変すぎる…。
それから、ええと、健常t障害とか、美女tブスとか、イケメンtブサとか、勝ち組t負け組とか、本妻t妾とか、うわひどい。


その表記が定着していたからと、さして考えもせず、あちらこちらでMtF FtMと使ってました。反省します。
別に誰からも苦情を言われたことはないけど、変だしひどいし嫌なのでもう使うのやめた。


犬は人t犬じゃないもん。犬だもん。
わわわわん。わんわん。