精神の声

精神の声 (1995) Духовные голоса


ソクーロフさんの、ロシア軍駐屯地レポート。5部構成、5時間28分の長尺。
はじめの公開から10年以上経って、今日やっと観ました。


第一部は、淋しい小さな林の雪景色。薄闇の雲間を縫って鶴たちが飛び交う38分。
美しさのきわみの第一部が終わると、第二部はすぐに軍隊へ。


男たちを描くとき、ソクーロフさんは、ホモソーシャルを排除しエロティシズム(長いので以下、エロと表記)に差し替えてしまうのがお得意です。
『日陽はしづかに発酵し』、『ストーン クリミアの亡霊』、『ファザー、サン』、『牡牛座 レーニンの肖像』と、毎度おなじみのホモエロ。
でも、他の作品では、男の肌の周囲に漂う空気がエロを醸し出しています。


『精神の声』も、エロ全開でした。
ただし、この映画のエロは、他のソクーロフさんの映画に比べて、あまりに直截的でびっくり。
第二部、第三部は、穏やかに緩やかに時間が過ぎていく、待機中の駐屯地の模様。
そこで写されるのはひたすら男の下半身。
ブリーフ一枚のお尻を、寄りの画で何分も延々と写したりするの。
被写体の肉体への執拗ないやらしい視線。これ盗撮AVか何かですかw


ところが、第四部、雲行きは急速に怪しくなり、殺伐とした戦闘が写し出される。


そして、戦闘を経た後の第五部。
第三部まで執拗に追っていた、男の下半身のアップは、全く出てこなくなる。
引きの画でも下半身は滅多に写らず、上半身ばかり。
下半身どころか、上半身のアップさえ、最後の最後、兵役を終えて眠りにつく兵士の姿までは、一切出てこない。
しかも、ひとつの被写体に留まる時間が短くなる。"肉体への執拗ないやらしい視線"は全くなくなる。
下半身ではなく上半身が、男たちの顔が写るようになるのにかえって、映画は彼らを突き放します。


ソクーロフさんの映画は、境目がはっきりしない揺れる映像で観客を抱き込んでくれるのが特徴。だから観ていて眠くなると言われるんでしょう。退屈で眠いのではなく、気持ち良くて眠い。
ところが『精神の声』は、はじめはそんな柔らかさを持っていた映像が、いつのまにか、ざらついた心地悪さに差しかわってしまう。
ざらつきを感じはじめると、第一、二部で苦笑いして観ていたいやらしい視線さえ、暖かなものだったのだと思い出されるようになる。
男たちの絆は、冷徹な軍人の関係に変わってしまっている。
肩に腕をまわし抱き合う姿が写されながら、そこからは、暖かさが排除されている。
ホモエロは、戦闘を経て、ホモソーシャルへ変容してしまっている。


引きの画ばかりで人々を突き放し気味に描く第五部にも、寄りの画で長く撮られている部分がある。
それは、軍人たちを気にとめていない鳥の姿と、軍人たちの姿をじっと見つめている犬のまなざしでした。


観終わって映画全体を振り返ると、平時のエロの描写との対比によって、戦闘の恐ろしい影響を感覚に訴える、たいへん作為的な構成だなと思う。
まあ、作為がとても上手くいっているから、不満があるわけではない。


それでも、なんだか中途半端だと感じた。物足りないと感じた。
その物足りなさはきっと、これより先に、2007年のソクーロフさんの映画で、お婆さんと彼女が戦地の村で出会う女たちが、男たちの平和なエロさえも、したたかにしなやかに突き放すさまを見ていたせい。


『精神の声』は、その2007年の『チェチェンへ アレクサンドラの旅』へ続き、そこでソクーロフさんは自ら、自分の仕掛けた作為を越えていきます。


ええと。『精神の声』の物足りなさ以上に、この文をここで終わらせるのはもっと物足りない。最後にいちばん大事なことを書いておこうっと。
いぬかわいい。わんわん。