ポー川のひかり

ポー川のひかり (2007) Cento Chiodi

イタリアの名門大学の図書室で、たくさんの蔵書が太い釘で床に打ち込まれる事件が発生するの。それを行ったのは、新進気鋭の若い哲学教授。
彼は地位と名声を捨て去って、豊かな緑に溢れるポー川の岸辺に住み着くの。近くの小さな村に住むかたがたは、知性と優しさに溢れた髭もじゃの彼を「キリストさん」と呼び慕うようになるの。
彼は、村のかたがたと接することでいつしか、それまで経験したことのなかった満足を得ていくの。
「何百の本を読むよりも、友人とコーヒーを飲み語らうほうが人生にはよほど重要だ」
書物の知識を詰め込むことに明け暮れてきた彼は、知識ではなく人と人との直の繋がりが重要だと感じるように変わっていったの。


知識を詰め込むことでかえって、すぐ目の前にあって触れることができる単純な真実から遠ざかる。
彼が学問としてどんなこと追求してきたのか、映画の中では「哲学」だとしか触れられないのでよくわからないけど、内容がどうあれその学問的知識は、虚像に過ぎないものと扱われているの。
そんな虚しい虚像に別れを告げて、彼が選択したのは人と人とのつながりに価値を置くこと。人に価値を置く、ヒューマニズム


でも、そこで描かれる人と人とはつながりは、彼らが、その社会の流儀で、村の流儀で、人の流儀で、男は男の流儀で、女は女の流儀で、接しあうことで、成立しているの。その流儀は、構築された人間性の虚構性を問わず、構築された社会性の虚構性を問わないことで成り立っているの。
人は社会的動物であるというの。
その社会とは、構築物に過ぎないの。根本が虚構なの。人は社会的動物。それを言い換えれば、虚構を内面化することで人は人を自認するということなの。
社会的文化的な性を、生物学的な性、自然な性として身体は認識するの。それは種の自認に関しても同じことなの。
人と人とのつながりとは、その虚構の自認を前提としたものなのね。
知識の積み重ねが虚構性から逃れられないのと全く同じように、人と人とのつながりも虚構性から逃れられないの。


この映画の描く、知識と人のつながりとの対立。んんん、対立は言いすぎかもしれないね、対比軸、程度でしょうか。この映画の描く対比は、虚構と虚構の対比なの。本質的なものではないの。
人という種に絶対的な優位性を確信しているために、これらを対比させて扱えるのでしょうね。そしてその絶対的な優位性を確信するヒューニズムは、自己言及的にヒューマニズム自身を強化し続けるの。


有無を言わさず人という種を褒めたたえる人間讃歌。
そうそう、劇中には、人以外の動物が鯰しか出てこないの。その鯰も、釣り針に吊り上げられる物品としてしか描かないの。


映画を観たあとに立ち寄った絵本屋さんで、ハチの絵本を読んだの。
帰ってこない大好きな上野教授を、渋谷駅前で暑い日も凍える日も、ひたすら待ち続けるハチ。
お座りしている姿を見れば、何が真実かを教えてくれるの。犬って、そういうものなの。しかも犬は、犬のいいにおいがするの。


ポー川のひかり』は、虚構の虚しさを離れ真実に目を開くことを薦めるの。
それなら、一言で充分なの。
わん!


こういう映画はいいや。
「人間映画に文句つけるなら、動物映画を観てろ」って感じですね。そうですね。
来週は、犬の『ボルト』と、犬の『HACHI 約束の犬』を観てくる予定です。ポー川を観て、そっちがますます楽しみにりました。
わん!わん!



<おまけ>


セントアンナの奇跡 (2008) Miracle at St. Anna


デレク・ルークが、相手を尊重して接する品行方正で純情な役柄。『きみの帰る場所/アントワン・フィッシャー』、『エイプリルの七面鳥』、『輝く夜明けに向かって』に続いてまたまた実直さを体現。その手の役専門になっちゃったのかな。
まあ、そういうの似合うから見てて気持ちいいの。
チョコレートの巨人さんが超かわいいの。
戦時下の人種差別の描写が良かったけど短いの。
登場するのは男ばかり。それは第二次大戦中の軍隊の話だから当たり前なの。


全体的に主張面はあっさりしているけれど、3時間弱だれるところはなく面白く観れたの。
わん!わん!わん!