動機は知らない

人を殺したくなって殺人を犯したというかたがいた。
誰かは特定しない。
兎を殺し、猫を殺し、犬までも殺して、「それでも飽き足らなくて」、人を殺してみたくなったという。「人を殺して何が悪い?」そんなふうに、殺人が悪いという共有された前提自体を疑ってみたりする。殺人を忌むべきものとする人間社会の規範から自由であるかのように語る。
が、それでいて、人より先に、兎、猫、犬を殺しているのは何故だ。人間社会の規範が設定している、種毎の生命の価値のヒエラルキーに、がんじがらめに縛られているじゃないか。どこが自由だというのか。人間社会下で定義された自分の属性だけを擁護する思考から離れられずにいるじゃないか。
まあ、本当の動機は、知らないけれど。


殺された愛犬の敵討ちとして殺人を犯したというかたがいた。
誰かは特定しない。
愛犬を殺すシステムを担っていた者たちへの復讐だと自供している。しかし、その動機は本当の動機ではないと判断した者が多かった。
愛する者の生命を奪われた恨みから、復讐を志す感情は一般的によく知られているはず。古今東西の物語としてよくある定型。死刑制度賛成論者がその理由として挙げる遺族の心情もそれだろう。
ところが、はじめに殺されたのが犬だとなると、はなからそんな動機は有り得ないと、途端に理解できなくなる人間が多いようだ。
きっと、自分の種のことだけが重要なのだろう。まるで、誰もが人間社会下で定義された自分の属性だけを擁護する思考を持っているに違いないと考えているよう。その前提は、あまりに権力志向を自明視していないか。
まあ、本当の動機は、知らないけれど。


路上で誰彼構わず刃物で切り付けて殺傷を行ったかたがいた。
誰かは特定しない。
事件を起こす直前に、急に仕事を解雇されることになったという。その点から一般には、自らの先行きを不安に思ったことが切っ掛けになったと、つまり格差を保持する社会が原因になって格差底辺にいたそのかたを殺人に駆り立てたのではないかと、推測された。
他の推測としては、そのかたがインターネットのヘビーユーザーだったから、オタクだったから、といったものがあった。理由の推測というより、偏見の強化に事件を利用しているに過ぎないだろう。
格差社会の底辺だったせい、インターネットのヘビーユーザーだったせい、オタクだったせい、どの理由付けにせよ、理由はあくまでもそのかたの社会的な立場をもとに推測されている。
立場を超越した客観的な視点から問題意識を持ったとははじめから判断されていない。
まるで、誰もが人間社会下で定義された自分の属性だけを擁護する思考を持っているに違いないと考えているよう。その前提は、あまりに権力志向を自明視していないか。
まあ、本当の動機は、知らないけれど。


権力への抵抗は、主にその権力に抑圧された者が担っている。
白人の支配へのに異義は、有色人種が。モテ規範への異義は、非モテが。男性優位主義への異義は、男ではないものが。ロシア革命は、労働者が団結して成し遂げた。人権運動は、被差別者の痛みを訴えの中心とする。それぞれに自分の社会的立場での利益を追求する。絶対の客観性を備えた正義のためではない、自分の利益のため。
そして、権力を掌握し他者を抑圧する者の理由もまた、自分の利益のため。
そんな利己的な発想ではなく、絶対の客観性を備えた正義を行えたら、こしたことはないだろうが、そんな正義などそう簡単には見つからない。だから利己主義の競合によって社会を改善しようと考えるのだろう。客観性を放棄して。
けれども、客観性が簡単ではないからといって、何故、そうすぐに諦めるのだろう。
現実的ではない。そうかもしれない。しかし、あらゆる権力への抵抗は、現実的ではないとたしなめられてきたものだろう。権力の問題において、現実的ではないからという理由は理由にはならない。
ただ、否定的な烙印をおされた属性を自分から引き受けることは、その烙印への抵抗となるだろう。当事者を積極的に選択することには権力への異議の意味はある。それはいい。
けれども、当事者として語ることに特に重要な意味を見出だすことはどうなのだろう。
まるで、誰もが人間社会下で定義された自分の属性だけを擁護する思考を持っているに違いないと考えているよう。その前提は、あまりに権力志向を自明視していないか。
まあ、本当の動機は、知らないけれど。


現実と語られるものは、人間の当事者性ばかりを結び付け、人間社会を基準に据えた認識でばかり語られているよう。現実という言葉は、なんて狭い範囲の瑣末な出来事を重大であるかのように印象づけるのだろう。人間の世界を価値づける人間世界によって人間を定義しあい、人間の定義に沿って自己を人間と認識し他者を人間と認識し、人間と認識することの積み重ねによって、人間の世界の存在を自明視し、人間だけを尊重しながら、いつしか人間を自認することに権力性が付与されることで、もっと人間であることが欲望されるようになり、社会的な定義の人間を種の人間として扱い、人間であり続ける人間たち。
人間たちは、何故、人間の世界を生きているのだろう。人間たちは、何故、わざわざ人間を自認しているのだろう。何故、自我を属性に依存させるのだろう。
動機は、知らない。


正当な動機も根拠も理由も必然性も、知らない。