女子男子アラサーアラフォー

中性女子、草食系男子、女子力など、女子/男子という言い方をよく見聞きするようになった。
もともとの女子/男子の「子」は、子ども=若い、を指しているかは知らない。そんなことは関係ない。
現在は、女子/男子という言い方は、ある程度以上若いかただけを指している。おばさん、おじさん、おばあさん、おじいさん。そのあたりの呼び方が似合うとされるかたは、はじめから除外されている。
女子/男子を使うかたは、若いのが好きなんだなあ。その感覚が当たり前なんだなあ。
若いのが好きでもいい。何を好むかは自由。でも、若いのが好きなのが多数の世界でその好みを表明するならエイジズム。ひろく共有されている支配的な価値観の表明は、差別的に作用する。それに、マジョリティの価値感は言わなくてもみんな知っている。言う必要はない。わざわざ表明するな。


それから、アラサー、アラフォーという言葉。
それを肯定的に使っていても、もっと極端なエイジズムに媚びている。「10代、20代がいいのは勿論だけど、30代、40代も捨てたもんじゃないわよ」みたいな。
10代、20代がいいという価値観が支配的であることを揺るがさずに、自分の世代の居場所を確保しようとする感じ。特権階級の既得権益を侵害しませんから、私たちの権利も認めて、といった感じ。


ジェンダーフリーを標榜するかたが言う。「性差別的な男らしさ女らしさを侵害しませんから、そこから外れた者の権利を認めて」
共生という思想が、抑圧的な価値観を持つ者へ訴える。「被抑圧者も共生させて」
「支配したい者が支配する"当然の権利"は侵害しませんから、多様性を認めて」
支配する者の機嫌を取って、うまく立ち回ろうとする。支配する者の権益を損なわないようにすることが上手なやりかただという。けれども支配する者が差別を行うのはそもそもその権益のためではないのか。
「わかってもらおうと思うは乞食の心」という田中美津さんの言葉を思う。その態度の不必要な卑屈さを指しているだけでなく、理解を求めるのは乞食を蔑視する者たちが変えることはない、とも言っているように思う。
わかってくれると僅かでも信じているから、わかってもらおうという行動になる。
そして、支配する者の権益を損なわないように気を使うことは、被差別者の痛みだけを強調し、被抑圧者の安全な居場所を確保させてくれ、という訴えになる。被抑圧者の当事者意識ばかりが強調される。
「こんなに辛く苦しい思いをしても、健気に生きている。この社会でより充実した生を得たい」平等な社会を目指すという建前は崩れ、そこで、自分の利益を目指すという本音が露呈する。そんなふうに自分の利益を追求する考えは、理解を得やすいかもしれない。そもそも、支配する者はそのために抑圧を利用しているのだから。
抑圧されているとひろく認識されている属性の持ち主は、その属性の当事者性によって連帯することが出来る。その連帯によって、ほんの少し居場所を確保できるようになる。その居場所を手放さないように、支配する者を怒らせないように気を使う。
そしてますます、支配する者に目を向けず、被抑圧者の痛みにばかり目を向けるようになる。被抑圧者の痛みを強調することで、自分の属性の利益を追求することが当然だという認識が広まり、それは支配する者の考えの正当化にも利用され、ますます支配する者は耳を貸さなくなっていく。
更にまた、被抑圧者の痛みを強調することで、支配する者の耳の貸さなさに目を向けなくなっていく。それは支配する者の考えを維持するのに都合が良く、支配する者は耳を貸さなくなっていく。
奇妙なスパイラル。


支配は、属性に対する価値設定の捏造をもとに行われる。誰かを傷つけることが間違っている以前に、そこが間違っている。抑圧されるものが存在しなくても、充分に間違っている。
差別とはまず、根拠のない属性の肯定のこと。
社会変革の方法は、集団で示威を行うデモや署名運動、政治的活動、あるいは言論の表明による説得や教育によって、穏やかな解決を目指すことが望ましいとされる。
ただしそれも、それが可能な場合だ。
だから、マイノリティの痛みを訴えるよりもマジョリティの権益の断罪を。


2009/07/31 追記
ああ。ここで止めるのは、落ち着かない。そんなことが結論ではない。
だから、属性に基づいた当事者性の完全な否定を。