ゼルエルを疎外するヱヴァンゲリヲン

高橋洋子というシンガーが好きだった。
長いこと、久保田利伸松任谷由実など有名歌手のバックコーラスを務めてきたかた。
1991年、TVドラマ『逢いたい時にあなたはいない』のイメージソング『P.S. I Love You』でソロ・デビューしたときに知って、それからずっとお気に入りで、CDを出すたび買っていた。


1995年、知り合いからその高橋洋子がTV東京で夕方にやるアニメ主題歌を歌っているという情報を聞いた。
当時高橋洋子が在籍していたキティレコードの情報だけチェックしていたので、それまでと違うキングレコードから発売されたそのCD『残酷な天使のテーゼ』のことは知らなかった。
それが『新世紀エヴァンゲリオン』というアニメの主題歌だった。


エヴァ最終回の一週間前のこと、その知り合いが、すぐに録画していたビデオを貸してくれた。
前半は、当時のテレビアニメでは他になさそうな高密度の作画に感心して観ていた。
中盤以降の単なるロボットアニメとは違う展開に引き込まれ、一日で一気に観てしまった。


そして一週間楽しみにしてオンエアを観た、なんだか衝撃的な最終回だという評判になった最終回。
もっとも初放送時に観たわけだから、そんな評価は知らない。
最終回は単に、なるほどねと満足した。何も違和感を感じなかった。
もともと日本のアニメよりヨーロッパの抽象的なテーマの線画アニメとかのほうが好みだったから、それまでの話よりもかえって観やすかった。


決して熱心なファンというわけではないけれど、それ以降の劇場版エヴァはひととおりチェックしていた。
どの作品も、満足いく出来だった。

そして昨日、公開中のヱヴァ最新作を観てきた。
はじめてヱヴァに否定的な気持ちになった。


ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 (2009)

(最初から最後までネタバレしてます。でも観てないかたには説明不足で意味不明かもw)


今回のおはなし。
・カジ、リツコとくっつきたがる。
・ミサト、カジとくっつきたがる。
・カジ、シンジをたぶらかす。
・カジ、シンジとミサトをくっつけたがる。
・アスカ、シンジとくっつきたがる。
・シンジ、ゲンドウとくっつきたがる。
・レイ、シンジとくっつきたがる。
・シンジ、アスカとくっつきたがる。
・マリ、シンジとレイをくっつけようとする。
・シンジ、レイとくっつきたがる。
・トウジ、ヒカリとくっつく。
・カオル、シンジとくっつきたがる。
ゼルエル、レイとむりやりくっつく。
・シンジ、レイをくどきおとす。
・カオル、シンジがレイといちゃつき出したのを見て嫉妬し、横槍を入れる。
みんなして、色気づいてる。みんなして、発情しまくり。
エロ! エロ! エロの虜! ひたすらエロ!


今回のヱヴァンゲリヲン、みんなして血眼になってくっつく相手を探していて、まるで盛況な乱交パーティの光景を見ているようでした。
アスカとレイはすぐ全裸になるし。
なんだかな。


そんなふうに見ちゃったけど、そうでなくて。
みんな孤独で絆に飢え、ひたすらに誰かとの繋がりを欲している。
その願いをそれぞれ率直に表に出している。
っていうことなんだろうね。でもなあ…。


新世紀エヴァンゲリオン』は、哲学的だと一応は評されてきたアニメ。


日本語の哲学という言葉には、実際に使われるとき、正反対の意味付けがある。


ひとつは、本来の、Philosophyの意味での哲学。
時代や環境に左右されない絶対的な真理を探求すること。
(実際には、環境に縛られた思考をしているものも多々あるけれど、それは論理の詰めの甘さに無自覚な、誤った仮設だったってだけだよね)


もうひとつは、人生哲学と呼ばれているもの。
その時代その地域の人間社会でうまく生きていくための処世術の指針。
「彼には哲学がある」なんて言うときの哲学は、たいていこっちだね。
論理的な整合性なんか関係ない。つまり真理なんて眼中にない。
矛盾には目をつむって、とにかくその社会でうまく立ち回って居場所を造るための方法論。
それは、もう片方の意味の哲学とは真逆の態度。
そんな反哲学的なものが、何故だか哲学と呼ばれ価値を置かれている。


エヴァンゲリオンが哲学的と評されているのを見聞きしたとき、前者の意味で捉え、その点をいくらか肯定していた。


ところが今回の『新劇場版:破』は何なんでしょうね。


まず前半のミサトがシンジたちに人生訓的な言葉ばかり語っているのを聴いて嫌な気分になった。
それまでもいくらかその傾向はあったけれど、今回ほど、日本的な村社会の馴れ合いの絆を肯定する、限定的な社会の規範に沿った訓示ではなかったはず。


旧劇場版「Air/まごころを、君に」では、観客に、というか、観客の中のアニメ依存度が高そうなヲタに対して、あからさまなメッセージが投げかけられた。
アニヲの世界だけでなく現実にも目を向けろと。視野を広げろと。
ただ、あのときは、現実の範囲は特に語っていなかった。


今回は、アスカの孤独と強がりが強調され、その孤独の解決策として、すぐ近くにいるミサトやシンジたちとの絆が強調される。
冷静に現実を見ていた綾波レイでさえ、人々の絆という価値の前に、冷めた視点を簡単に崩してしまう。
とにかく近くの相手と絆を結ぶことを推奨しているよう。
そうすれば、充実した現実を得られると言っているかのよう。


現実を解析することなく、ひたすらに今目の前にある現実だけを肯定しろ。
一切、自分以外の現実を変えようとしてはいけない。おまえが現実に迎合しろ。
個を捨て繋がりだけを求めろ。
劇中に昭和日本のアイテムがいくつも挿入されていることから、余計そんな印象を受ける。


人生哲学的。反哲学的。真理の探求をないがしろにする態度。
そんな態度で望んでいる希望は、劇中で裏切られていく。
シンジのゲンドウへの信頼は裏切られ、アスカのシンジへの願いは不可抗力に潰される。
けれども最後に、使途ゼルエルに取り込まれたレイにシンジが手を差し延べ、レイは戸惑いながらもそれに応じ、2名は手を繋ぎあう。


でも。シンジ以前に、ゼルエルがレイと同化しているんだよね。
シンジがレイに絆を結ぼうと手を差し延べたのと、ゼルエルがレイと同化したのと本質的に何が違うのだろう。
それは、ゼルエルが無理矢理レイを自身に取り込んだのであって、レイの自由意思によるものではないんだけど。


シンジがレイと絆を築けたのは、レイが人類同士の絆に価値を置く人類社会で共有された規範に同化されていたからでしょう。
一体しか存在しない種であるゼルエルが行った同化は、ゼルエルという個の同化。
集団の規範に同化させるのは良くて、個に同化させるのは駄目ってことですかね。


また、多くのゼルエルが暮らす社会があり、レイがゼルエル社会一員で、ゼルエル同士の絆というその社会で共有された規範を受容していたら、シンジとゼルエルの立場は逆になる。
自分の置かれた立場によって正しさが変わるなんて、そんなのもまた、人生哲学的、反哲学的。


それに、セカンド・インパクト後の使徒襲来は、地球を支配する種を選びなおすためのものでしょう?
たったひとつだけの生存権を巡って種が争う、相手を殲滅するか、自分が殲滅させられるか、どちらかしかないルール。
今回のゼルエルの同化は、敵同士と設定するルールの力に従って、人類を殲滅するのではなく、ルール自体を書き換えたように思う。
ゼルエル視点からしたらレイ同化は、絶滅させるべき種の一員であるレイを自身に取り込むことによって、絶滅させないで済まそうとしちゃうってことでしょ。
ゼルエル、優しいよ、ゼルエル
ゼルエルは、他の種を取り込んで同化すること可能なら、他な生物やら使徒やらを片っ端から同化して内なる多様性を深化させて完全な種を目指せるかも。
シンジみたいに目先の人間社会がセカイのすべてな奴より、種を越えた世界を見据えたゼルエルの太っ腹さが素敵だよ。
この話においてゼルエルよりもシンジを肯定している演出をしていることで、この映画はその点でも反哲学的になってしまったと思います。


新劇場版では旧シリーズ以上に、冷徹に問題を問い詰めて深化させてくれることを期待していたのに。
とりあえずは残念でした。


ところで今回の戦闘シーン。
使徒たちは、TV版のフォルムを基本にギミックを加えまくっていて面白かった。
それに比べてヱヴァ側が退屈だった。
一体一体に特徴がないんだもん。
通常モード、ビーストモード、覚醒暴走モードと、見た目や名付けでは違うけど、結局は使徒に飛びついてATフィールド張って格闘するだけ。
人型汎用決戦兵器らしく人臭い動き。
旧シリーズであったような獣と化したヱヴァを期待していたから、今回のは何か違う。
ヱヴァの覚醒も、獣化するんじゃなくて、人化しちゃうんだもん。
もともと人型なのが、人に覚醒したって、どうせどっちモードでも結局人型。変化ない。つまんない。
怪獣や怪物が好きだから退屈に感じたんだと思う。
ヱヴァの後に観てきた『モンスターVSエイリアン』の戦闘シーンは面白かった。
能力が全く違うモンスターのチームだから、それぞれに戦いかたがまるで違う。
今回ヱヴァは、零号機初号機弐号機、何号機だって戦いかたに大差ないよ。
まあ、人型ロボット系が好きで、今回のヱヴァを格好いいと思うかたなら、好きなんだろうね。


…なんて、不満ばかり書いてしまったけど。
この新劇場版はまだ完結したわけじゃないからね。
次回、それらの不満がすべてひっくり返される可能性はあるような気がする。
不安半分、期待半分で楽しみにしています。