ボケとツッコミ

日本の芸能界でのゲイの基本はお笑い担当のオカマ。または豪華絢爛な貴族趣味の大奥様。
ビアンはいない…わけじゃないけれど、ビアンを明かすとメジャーな範囲からは除外されがちです。
そんな、わざとらしいほど過剰な女らしさを身につけたオカマや大奥様のキャンプな感覚は、そもそもの女らしさや男らしさの虚構性を暴き性規範を解体する効果があると、いくらか自由な性の認識を開くという政治的な可能性を見出だす考えかたがあります。


けれども、オカマの男らしさ/女らしさからの逸脱をはみだしものとして嘲笑するだけで済ますなら、そんな効果は得られない。
「ありえねーwww」の一言で、認識上の分類は終了。
大奥様を異世界のものと片付けて理解を放棄するなら、そんな効果は得られない。
「ありえねーwww」の一言で、認識上の分類は終了。
実際の芸能界での扱いはそんなもんでしょう。


ブッチや、身嗜み無頓着ビアンや、はたまたそんな固定的なパターンではない性のオプションの独自の組み合わせや、オプション無視。
そういったかたの可視化ができたとしても、同じ扱いを受けそうです。
かといって、性規範からの逸脱が少ない、一般ヘテロふう男ジェンダーを身につけたゲイやフェミニンなビアンが可視化されても、そこには性規範解体の効果は見られないでしょう。



ところで話はいきなり飛びます。
日本のお笑いについて。


昨今の日本のメジャーな芸能界のお笑い、芸能界の漫才や漫才もどきのトークは、ボケとツッコミのかたちが基本です。
おかしな言動をするボケ役に対して「それは変だ」とクレームを入れるのがツッコミ役。
単独芸人の場合は、挿入される観客の笑い声がツッコミ役を担っています。
ツッコミ役は、ボケの言動に解説を加え、「ここ、笑うところです」と観る側に指示を与えます。
指示者は、「普通の感覚」をもとに笑いのポイントを判断します。


観る側の多くは、いちいち笑うところを指示されることで安心が得られるのでしょう。
笑っていい場面か、笑うよりも先に指示を参照するのです。
指示者がいない場合は、自分の内面にコピーされた「普通の感覚」の指示を仰ぎます。
普通の範囲を逸脱しないことにいつも戦々恐々。
何故か。「普通」であることは責任を免除されるという特権があるのです。その特権にしがみついているのでしょう。
「だってそれが普通でしょ」 「みんなやってるじゃない」


精神的疾患などで判断能力が欠如していると見なされた者は、責任能力がないと扱われます。
「普通」の責任逃れの言い訳は、結局、「これは普通に合わせただけ。自分の判断ではない」ということ。
「普通」は、判断能力が欠如しているのです。
しかし、他の判断能力が欠如した者は、その欠如を理由に劣った者として軽蔑される立場があてがわれますが、「普通」の場合はそれによって不利益を被ることはありません。「普通」であることは、大変に卑怯な選択です。


そんな、空気を読み、郷に入れば郷に従い、協調性を重んじ、長いものには巻かれる思考停止によって責任逃れは、日本の「美徳」です。
ニッポン、バンザイ!*1 *2


自分で考えず権力に解説をしてもらってそれを鵜呑みにする。
思考停止は、日本らしい文化なのでしょう。


でも、「春はあけぼの」…ではじまる短い文のむこうにある叙情に、緻密な解説を加えるのは野暮ってもんですよ。
落語の噺の後に、のこのこ解説者が出てきてオチを解説し、熊さんにツッコミを入れまくったりしたら、おあとがよろしくないですよ。
俳句や短歌などもそうです。
過剰な説明をせず少ない情報の行間を読んで類推させるという、思考を推奨する文化も日本文化なんです。


「空気を読む」という規範は、もともとそういうものだったような気がします。
言外のものを類推する、思考の推奨。
けれども現在の「空気を読む」は、その場で力がある者に従う命令でしかありません。
権力の空気に隷属する、思考停止の推奨。


小咄のボケ役、熊さん。
熊さんのボケは、かわいいと思う、愛らしく感じるポイントなんです。
ボケをかます熊さんをどついて馬鹿にするような、節操を欠いた表現の落語は見たくありません。


ボケとツッコミの笑いは、それをやってしまっているんです。


ツッコミ役につっこまれた時点で、ボケ役はそれ以上そのボケを継続することが出来なくなります。
ツッコミは、常識という規範によって、ボケの暴走を止めるんです。
ボケ役はそこでは、常識の世界の者から見下され嘲笑される立場に留められます。
それは日本の芸能界でのオカマや大奥様の繋ぎ止められた立場でもあります。


しかし、ツッコミによって自由を奪われなければボケはもっと深化させていくことが出来るでしょう。
突き詰めたボケは、ナンセンスの域に踏み込み、もっと突きつめればシュールな世界に達します。
英国的な笑いと言われるものが、このパターンでしょうかね。


ボケとは規範からの逸脱のことです。


ツッコミによって、ボケは常識の世界に隷属させられます。
しかしボケがツッコミを逃れてシュールな世界を構築してしまえば、それは常識の世界と並列になり得るのではないでしょうか。
そのときはじめて、ボケは規範解体の効果を持つことが出来る。
オカマ、大奥様は、性規範解体の可能性を持つ。

さらに、ボケツッコミ笑いを見ていると、むしろ、ツッコミ役がつっこむ根拠としている規範こそ、つっこみどころ満載だったりします。
昨今の日本のメジャーな芸能界のお笑いを例えて言えば、スコットランドの民族衣装を着ている男性を見て「男のくせにスカートはいてるよ。超おかしくね?ハハハ」のようなノリです。
おかしいのはどちらでしょうかね。

どちらが正しいか、どちらがおかしいかなんて問題ではないのでしょう。
嘲笑する対象は決まっていて、おかしさの内容なんてどうでも良くて、とにかく常識の視点から見てバカをやっているものを蔑んで笑う。普通じゃないことを嘲笑う。
ボケの論理破綻を笑うのではなく、規範逸脱を嘲笑うのです。


一方、シュールな世界の者は、常識の世界に見下されたりはしません。
構築された逸脱の平衡世界は、常識の世界の脆弱さを照らし出す力を持ってしまいます。
ツッコミは、ボケにそんな力を与えないため、執拗な嫌がらせによって牽制しているのでしょう。
ツッコミはまるで、DV加害者のようです。
DV加害者は被害者に対して「お前はダメな奴で弱くて俺がいないと何もできないバカだ」と態度や言葉でしつこく叩き込んで、支配被支配関係を固定します。
そんな関係のもとで加害者側は一方的に暴力を振るうだけで、自分は暴力にさらされる危険がない安全圏を確保します。


ボケツッコミお笑いの観客も、常識の世界という安全圏を脅かされることなく笑っているだけです。
そして、そんなメジャーな芸能界のお笑いの在り方は、芸能人ではない一般のかたがたの日常の笑いにも移植されます。
そんな笑いの場に冷ややかでシニカルな態度で接する者は、「ノリが悪い」「空気読んでない」「暗い」「陰気」と、やはり支配的な規範を用いて排除をはじめます。


明るく陽気な印象付けがなされている「お笑い」とは、なんと暗く陰欝なものなのでしょう。


そんな陰険なのは、笑えません。他のコメディを観ます。
例えば英国産のシュールなお笑いとしては、クレイアニメのTVシリーズ『レックス・ザ・ラント』には、とても笑わせていただきました。
シュール系のような規範逸脱を愛おしむ傾向のある作品は英国の独壇場っぽいけれど、それがホラーコメディの分野になると他の地域でもよくあるんですよね。


例えばアメリカ産の、『悪魔のいけにえ2』が好きです。
殺人鬼レザーフェイスたんは、チェーンソーをぶんぶん振り回して人間を切り刻み、人間の顔の皮をはいでコレクション。
今日は自分の顔にどの皮をつけようかなあって、ちょっとお洒落なレザーフェイスたん。
気に入った獲物には、チェーンソーのエンジンを止めておずおずとラブコールするレザーフェイスたん。
頭が弱い、ボケ役で、でも愛すべきキャラ。
レザーフェイスたん、かわいいなあ。


脳みそクレーがお茶目な『バタリアン』、ペニスをぱくぱく食べるのが楽しい『ゾンビ・ストリッパーズ』なども好きです。
ボケツッコミ笑いのような陰険さがなくて、楽しいです。ニコニコ。


2009/08/02 追記
セクシュアル・マイノリティへの偏見と重ねて書いたことで何かズレているかもしれない。書きかたがまずかった。
お笑いに対する要望が、常識の解体までみたいになってしまっている。一般に常識と扱われる範囲だけで止まらず、人間性の解体の解体までを求めてる。


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*1: バンザイについて  日本の侵略戦争の象徴だったからと君が代や日の丸に反対するかた。そんなかたがバンザイという言葉は気にとめていないことに出くわすと何か引っ掛かるものを感じます。バンザイも拒否すればいいのに。そのかたが君が代や日の丸を問題視しているのは、その問題が既に左翼的に広く共有されているからなのではないかと勘ぐってしまいます。日本の規範を批判しながら、その問題意識も結局は別な共有された規範に従っているだけじゃないの? と冷ややかな気持ちになります。

*2: 2009/07/29 追記 gnarlyさん、hituzinosanpoさんより、「バンザイ」の成り立ちについてブクマ上でご指摘。ありがとうございます。 http://www.radical-imagination.net/2004/07/post_17.html 万歳はもともと天皇崇拝を共有する装置として造られたものなのですね。これは知りませんでした。ちゃんと気にかけているかたもいるんですね。 日の丸、君が代、万歳の広められた時期はこうでしょうか。 1870年 日の丸を国旗に採用 1880年 君が代を国歌に採用 1889年 大日本帝国憲法発布/万歳の流行が造られる そうなると。君が代や日の丸は、その後戦争を起こさなければ、戦争には関係なかったかもしれない。万歳のほうが、戦争との結びつきが強いのですかね。なら、万歳こそがより問題でしょう。君が代、日の丸は、国家が行ったもの。万歳は、一般国民が行ったもの。君が代や日の丸を問題視して万歳を気にしないかたは、気づかない場合はともかくとして、そうでなければもしかしたら国民の責任は問わず国家の責任だけを問いたがっているのでしょうか。学校教育の場などで行われた場合への異義が多いですものね。(公的機関に対して意見しているから目立つだけかなあ)個人的なこと「こそが最も」政治的と考えます。戦争責任は、天皇よりも、国や軍部に迎合というよりその生活圏の多数派に迎合した国民にあると考えます。