トランスのたとえばなし

現在、ニコラス・ケイジ主演の『ノウイング』(2009)、それから、『モンスターVSエイリアン』(2009)が公開中。
モンスターVSエイリアン』は、『蝿男の恐怖』他、往年の怪奇SF映画へのオマージュ映画(…だと思ってるけどどうなのかな。明日観ます)
この2つの映画の情報をチェックしていたとき、そのつながりで、このリメイク企画を思い出した。

ニコラス・ケイジ、「ザ・フライ」のリメイクにも興味?
 昨年、「ウィッカーマン」のリメイクに主演したニコラス・ケイジが、今度はデヴィッド・クローネンバーグ監督の「ザ・フライ」のリメイク企画で主演に興味を示している模様。現在、同作のオペラ版プロジェクトに関わっていて映画リメイク版プロジェクトには直接関わっていないというクローネンバーグ監督が、関係者から聞いた話として明かした模様。


実現すれば、ジョルジュ・ランジュランの小説『蝿』の、『蝿男の恐怖』(1958)、『ザ・フライ』(1986)に続く、3度目の映画化。
この企画はどうなっているんだろう。楽しみです。



ザ・フライ』(1986) The Fly


性別違和についての話を聞くと、映画『ザ・フライ』(1986)が思い浮かぶ。


他、思い浮かぶのは。
ベアーズ・キス』(2002)、『白くまになりたかった子ども』(2002)、『ブラザーベア』(2003)などの、クマとヒトのトランス。
『ボクはむく犬』(1959)、『フルーク』(1995)、『弟が犬になっちゃった!』(2004)、『シャギードッグ』(2006)などの、イヌとヒトのトランス。
超人ハルク』や『スパイダーマン』のような、自分の望まない身体を得ることになるタイプの、アメコミヒーローもの。


TG、TS業界(?)では、あまりそのあたりがチェックされていないように思える。
当事者意識によって興味が決定するにしても、そのものズバリのTG、TSそのものにだけ興味の範囲が限定されているように思える。
現実世界での違和の重さ故に、たとえばなしに目を向ける余裕がなくて、自身の違和とぴったり一致するものだけを求めてしまうのだろうか。


セルロイド・クローゼット』というドキュメンタリーで描かれるのは、同性愛描写が許されなかった時代に同性愛当事者のスタッフたちが商業映画作品にさりげなく埋め込んでいた同性愛のメッセージ。
(メッセージというより、単なる同性愛的な萌え要素に過ぎないものも多くあるけどw)
けれど、果たして製作者の隠しアイテムに気づいていた同性愛当事者はどれくらいいたんだろう。
もしかしたら、ほとんどいなかったんじゃないか。
映画版『X-MEN』シリーズなどは、社会における同性愛者の立場のメタファーだと知れているけれどそれも、同性愛者とカミングアウトしているブライアン・シンガーが監督していたのでなかったら、同じ内容だったとしても同性愛業界(?)で、どう扱われていただろう。


抑圧されていることに意識的になればなるほど、当事者意識を持てば持つほど、視野は狭くなる。
自分の苦悩でいっぱいいっぱいなかたを、視野の狭さで責めることもない。


でも、マイノリティといえど、比較的贅沢な立場にいて、自分の世界だけを大袈裟に苦悩して、視野が狭い場合もあるからなあ。
男性同性愛者が、同性婚の法制化を求めている姿を見ると白ける。
男女の所得格差がある社会で、同性婚と婚姻による一律に経済的保障を認めたら、男性同性愛者カップルが圧倒的に有利になる。
同性婚自体に反対だけど、それは置いといて) 男性同性愛者は、同性婚を求めるなら、それと同時に、男女差別、特に彼らにとって身近な男性同性愛者コミュニティ内のミソジニーを問題にしてほしいもんです。
自分が当事者ではない問題に興味を持たない被差別者が、どうして差別者の無関心を問えるというのだろう。
いや、別に問えるけどさ。そんなのばっかりだけどさ。



逆に、『ザ・フライ』が好きなセクシュアル・マジョリティのかたは、TGやTSをすぐ理解できるのかな。どうかな。
別に、『ザ・フライ』が、TGやTSのメタファーだと言う気はないけどね。
でも、想像する切っ掛けになり得るのではないだろうか。
現実の社会規範は、たとえばなしのひとつにすぎない。
可能世界のひとつにすぎない。
マジョリティとしての余裕があるぶん、他の可能性を想像してほしいものです。


たとえばなし。たとえばなし。
物事を一旦抽象化して、具象に戻したはなし。
そんな映画が好きだ。



遺伝子融合によって『蝿』に セスさん


異なる種との遺伝子レベルでの結合による「遺伝子変換」。
マスコミに取り上げられたり、法律が整備されたりと、着実に理解は進んでいる。
一方で、偏見から周囲の者に打ち明けられず苦しむかたもいる。
種の多様性を認め合うためにどうしたらいいのか。
蝿としての生を歩み始めたセス・ブランドルさん(34)の生に迫った。


セスさんが、違和感を覚えたのは生体転送装置を開発していたころ。
恋愛関係だったベロニカが家を空けた時、日々崩れ落ちてゆく身体のパーツをこっそり眺めて楽しんだ。
一方で、そんな自分を「虫としての変態がはじまった」と認めないわけにはいかなかった。
恐怖がいつも心にあり、人に知られたら「生きていけない」と思っていた。
「一般の人には理解されにくいんだけど、恐怖を感じれば感じるほど性衝動も増してきた」
色恋沙汰がありふれた盛り場に住んでいたため、周囲には“普通”と映った。
ベロニカだけでなく部屋に連れ込んだ女性とも性行為に及んだ。
性行為の快感が虫の特性を肯定することに拍車をかけたという。
「拳で壁を打ち砕いたり、ポールで高速で回ったりすると、感嘆されるのがすごくうれしくって」
けれども世間的には虫と人間たちとのギャップを感じるようになっていった。
人間らしさを求められ苦悩することになる。


2004年、戸籍の性別変更などを認めた性同一性障害特例法が施行された。
興味本位ではなく、新聞などで、まじめに取り上げられることが多くなったのを
セスさんも、自らの種の移行を受けとめなければと考えるようになった。
とはいえ、それまで自分の遺伝子構成はよく分かっていなかった。
ふと思い立って遺伝子解析をしたことが転機になった。
解析結果は「蝿との遺伝子融合」。
自身が蝿だったことを初めて受け入れることができた。
痛みもあった。
話し合いの末、ベロニカとの9か月の交際に終止符を打った。
「ベロニカのお腹の中の子どもと離れて暮らすことが特につらかった」と言う。
それでも、彼女が蝿の変態の様式を理解し、応援してくれたことが心強かった。
異変を気にかけていたスタシスにもベロニカから伝えてもらった。
スタシスは「蝿の子供など堕胎しろ」と言って、ベロニカを無理に連れ去ろうとした。
セスは、スタシスの腕と足を強酸性の胃液で溶かしてやった。


そして、戸籍を人間から蝿男に変えた。
種の変更は法律で未成年の人間の子どもがいる場合はできないが、ベロニカとの子どもは人間ではなかったので問題はなかった。
これは「蝿」として生きていくことの決意だった。
今、見た目もすっかり蝿に変わった。周囲の者も最初は驚いていたが、今は受け入れてくれている。
これまでは、服を着て出歩いていたが、今は裸。6本の黒光りした足で力強く歩む日常が無性に楽しい。
蝿への変態がはじまって以来、今はじめて、セスは生きることの喜びを実感している。
「単眼から複眼の世界になった感じ。世界は生き生きとした多様性に溢れている」とセスは語る。


しかし、社会にはまだ偏見もある。
「いろんな種が認められることが大事って思う。私も自分にしかできないメッセージを発信していきたい。それから、人間の肉は溶かして食うととても美味い。分けてくれ」
セスさんはそう語り、私の身体に胃液を吹きかけた。


ブーン (@¥@) ブーン


もとねた